冷水に晒した豆腐を四角に切っただけの、料理とも言えない一品だが、夏場に涼味を感じる素晴らしい食べ物である。おろし生姜、刻んだ紫蘇や葱を散らして花かつおをぱらりとふって、醤油をかける。やっこの白に葱と紫蘇の青、生姜の黄、花かつおの桃色が映えて、見た目にも美しい。フランス料理や中華料理がいくら威張っても、こういう自然そのものの素材が持つ美しさを十二分に引き出した食べ物は到底望めない。しかもこれが、江戸の昔から最も安価な庶民の食べ物であったというところがすごい。
羊飼いの持つような形の真鍮製の笛をプープーッと吹いて、「とおふィー、とーふ」と独特の売り声で天秤棒を担いだ豆腐屋が近づいて来る。向こう三軒両隣のおかみさんたちがてんでに鍋などを持って出て来て、「ヤッコでね」「あたしは賽の目」なんて頼むと、豆腐屋の親爺は手の平に載せた豆腐を大きな包丁で鮮やかに切って「はいよ、一丁」。昭和40年代まではどこの横丁にも見られたありふれた風景であった。いまではスーパーのパック入り豆腐が幅を利かせるようになったものの、相変わらず冷奴は夏の夕餉には欠かせない役者のようである。
水でふやかした大豆をすり潰し、どろどろになった汁(呉汁)を袋に入れて絞る。搾り出された汁が豆乳で、これを温めながら苦汁(ニガリ=凝固剤)を混ぜて撹拌し、型箱に流し込んで固めたものが豆腐。豆乳を絞り取った袋の中の糟がオカラ(卯の花)である。豆腐の製法は奈良時代に中国から伝わったのだが、その後千数百年、日本で改良が加えられ、本国よりずっと口当たりの良い、高度に洗練された食品に進化した。
日本の豆腐は大別すると木綿豆腐と絹漉し豆腐の二種類になる。凝固剤を混入した豆乳が固まる過程で水分をある程度抜いてゆき、堅めに仕上げたものが木綿豆腐で、型箱に敷いた木綿の布目がつくところから、この名前で呼ばれるようになった。絹ごしは上澄み液を汲み出さず、ゆるゆると固めてゆく。こうするとまるで絹布で漉したかのようななめらかな口当たり喉越しの豆腐ができあがる。今日では豆腐製造もかなり機械化されて、凝固剤の処方や水分の抜き方などで操作するようだが、原理は同じである。
大昔の豆腐は水分を徹底的に抜いて、ずいぶん固いものを作っていたらしい。だから豆腐を運ぶのに縄で十文字にからげてぶら下げたという話も伝わっている。こういう豆腐だと薄く切って串に刺し、火にあぶって味噌を塗る田楽が作りやすい。現今の中国の豆腐はややこれに近いようで、向うの料理屋ではかなり歯応えのある豆腐に出くわすことがある。
江戸時代からずっと、第二次大戦後もしばらくは、もっぱら木綿豆腐が幅を利かせていた。ところが工場生産が盛んになって来るに従い、工程上手間のかからない絹漉しが多く出回るようになる一方、柔らかくて口当たりの良い食品が好まれる風潮も重なって、今日では絹漉し豆腐の方が持囃されている。しかし、豆腐好きは「冷奴はやはり木綿でなくちゃあ」と言う。それも花かつおだ何だと余計なものを乗っけるのは邪道だ、葱をぱらっと振って生醤油をぶっかけて食うに限ると粋がる。
なぜ冷奴という名前がついたのか。昔、奴(中間)のお仕着せ半纏の背中には四角い紋がつけられていたところから、四角に切るのを「奴切り」と言った。奴に切った豆腐、すなわち奴豆腐という言葉が生れ、冷やした奴豆腐だから「冷奴」になったという説が有力である。もう一つの説は、やはりその昔、江戸の町々には水売りという商売があり、「ヒャッコイ、ヒャッコイ」と売り歩いていたが、その当時の下町で冷たいものを言う「冷やっこい」が転訛して「やっこ」になったとういうものである。
語源の穿鑿はとにかく、エアコンというものが無かったつい最近まで、食欲不振に陥る夏場、冷奴は見た目の涼感ばかりでなく、庶民を夏バテから救う貴重な蛋白源でもあった。
冷奴死を出で入りしあとの酒 高浜虚子
北嵯峨の水美しき冷奴 鈴鹿野風呂
もち古りし夫婦の箸や冷奴 久保田万太郎
忽ちに雑言飛ぶや冷奴 相馬遷子
冷奴隣に灯先んじて 石田波郷
若うして奴豆腐の好みかな 久保より江
冷奴つまらぬ賭に勝ちにけり 中村伸郎
藍匂ふテーブルクロス冷奴 一条悠子
真四角にむかしかたぎの冷奴 中西信子
旅終へて普段の暮らし冷奴 岩崎健一