初鰹(はつがつを)

 江戸っ子をこれほど興奮させた魚は他にない。それが尾を引いて今でも東京を中心に関東地方では非常に人気のある魚である。兼好法師は「徒然草」のなかで鎌倉の堅魚の話を書いて「かやうのものも世の末になれば、上さままでも入り立つわざにこそはべれ」としている。こんな下魚でも世の中が変ると上流階級の食卓にまで上るようになるのだなあ、という半ば嘲り気味のコメントだが、それも当然、鰹という魚は新鮮さが身上で、海から遠く離れた京都では旨い鰹など食べられるはずがないのである。兼好さんは終世おいしい鰹を口にしたことは無かったに違いない。せいぜいが切り身を蒸して生干しにした「なまり節」を煮て食べるくらいのところであったのだろう。

 鰹は南海に育ち、気温の上昇と共に黒潮に乗って日本近海に北上する。3月頃、九州沖に現れるのが初鰹の走りだが、この頃はまだ体長も50センチくらいで肉も柔らかくて脂もほとんど乗っておらず、あまり旨いとは言えない。それが四国沖、紀伊半島沖、遠州灘と餌の鰯を追って北上するにつれ、大きく紡錘形に太り、やがて相模灘沖に差しかかる頃には90センチほどの大物になる。これが青葉の頃、5月から6月にかけてのことである。つまり5、6月に鎌倉沖、相模灘で獲れる鰹こそ本物の「初鰹」なのである。

 この獲りたてを早舟あるいは早飛脚で江戸に運んだ。朝水揚げされたものが、その日の午後には江戸の町に到着したという。沖合で鰹漁船から獲れたての鰹を積み替えて江戸へ運ぶ舟は、舳先が細く帆を上げた上に八丁魯を備えた快速艇で、ほんの数時間で日本橋に到着したという。

 そのかわり初鰹の値は目の玉が飛び出るほどのものであった。蜀山人日記にそのいきさつが載っている。文化9年(1812年)3月25日というから今で言えば5月初旬、日本橋魚河岸に上がった初鰹は17本。6本は将軍家によるお買い上げ、3本は料亭八百善へ、残り8本が市中出回り品だったが、中村歌右衛門が1本を3両で買ったという。当時の最下級武士の年俸はいわゆるサンピン(三両一人扶持)なのだから、この値段はものすごい。今日の貨幣価値と簡単には比べられないが、まあ鰹一本30万円といったところだろうか。

 こんなわけだから初鰹はホトトギスと並んで初夏の景物の筆頭であり、俳諧の題材にはもちろん、川柳の主役としていやと言うほど登場している。「清水に思案してゐる初鰹」思い切って買おうか、いや我慢しようかと思い悩んだ末、「初がつほ人間僅かなぞと買ひ」と、もう半ばやけっぱちである。中にはいじましく「裏中へ鰹を壱本切り散らし」と、長屋中で分担購入というのもあった。

 売る方も時間が勝負だから大変である。「昼までの勝負と歩く初鰹」であり、「伊勢屋から鰹を呼ぶや否や雨」と日ごろケチで有名な伊勢屋から呼ばれようものなら、時ならぬ雨に見舞われたりする。売れ残りの傷んだ鰹は目茶目茶に値が下がる。「伊勢屋さんもふくえるよと鰹売」である。そのかわり食中毒が恐ろしく、「鉢巻にあやまって居る鰹売」という場面になる。むかし病人は鉢巻をしてうんうんうなっていたものである。

 結局のところ、「目も耳もただだが口は高くつき」と悟ることになるわけである。言うまでもなくこれは山口素堂の有名な句「目には青葉山ほととぎす初鰹」を踏まえたものである。(この部分は浜田義一郎「江戸たべもの歳時記」を参考にした)。

 鰹は「勝魚」に通じると武士階級にも好まれたことも江戸で流行る一因になったのかも知れない。それはさておき、紡錘形で三日月形の尾びれ、背中は青黒く腹は銀色に輝き青い縞が数本流れる(もっとも獲れたての鰹には縞が無いという)、その姿はいかにも威勢が良く、初夏を呼び込む風情がしたたる。しかし最近は漁船が大型になり、漁法も発達して遠く南の海域まで獲りに行くから、「初鰹」がピンと来ないようになってしまった。2月頃にはもう初鰹が東京の料理屋に出現する始末である。さらに冷凍技術も進歩したから去年の秋の「戻り鰹」もある。何が何だか分からないのである。

 獲れたての鰹だったら刺身が一番旨い。鮪の刺身よりやや厚手に切ったものを、おろし生姜と細かく刻んだ青紫蘇で、醤油をちょっとつけて口に放り込む。生姜の代りに溶き辛子をつけても旨い(江戸時代は鰹の薬味は辛子と決まっていた)。これに冷やの辛口吟醸酒なら言うことはない。

 鰹は時間がたつと特有のくせと臭いが出て来るので、そういう場合は「たたき」にする。小口切りした青ネギと刻みニンニクとおろし生姜を大量に用意しておき、一方で三枚あるいは五枚におろした鰹に金串を刺して火にあぶる。藁火が良いというが、ガスの炎でもかまわない。鰹の脂がバチバチと火にはぜ、表面の色が変ったら、すかさず金串ごと氷を浮かべた冷水にじゅっと浸ける。冷えた柵を俎板にとって金串を抜いて水気をぬぐい、青ネギ、ニンニク、おろし生姜をまぶしてぺたぺた叩き、平たいバットなどに入れて上からも薬味をまぶしラップをかけて冷蔵庫で15分から30分なじませる。至極簡単に鰹のたたきが出来上がる。

 近ごろは初鰹の時期が青葉の候とは限らなくなって、その感激もいささか減殺されてしまってはいるものの、やはり初鰹を句にするとなれば、その威勢と気っ風の良さ、初夏の爽やかさを歌い上げるべきであろう。


  鎌倉を生きて出でけむ初鰹   松尾芭蕉
  目には青葉山郭公初松魚   山口素堂
  芝浦や初松魚より夜が明る   小林一茶
  初鰹襲名いさぎよかりけり   久保田万太郎
  初鰹双生児同日歩き初む   中村草田男
  初鰹夜の巷に置く身かな   石田波郷
  初鰹せりの氷片とばしけり   皆川盤水
  町空をとどろかす雷初鰹   井上美子
  初鰹亭主関白つらぬきて   澤田緑生
  初鰹兄弟揃ふ日なりけり   高田堅舟

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