5月の第2日曜日。子が母親に感謝を捧げる日とされる。1907年、米国ウエストバージニア州ウエブスターに住むアン・ジャーヴィスが、母親の命日にあたるこの日、教会に白いカーネーションをたくさん抱えてやって来て、友人たちに分け与え、追憶にふけった。これをきっかけに、この日を母親に感謝を捧げる日とする機運が高まり、母親のいない者は白、現存する者は赤のカーネーションを胸に飾るようになった。さらに米国だけでなく全世界にこの運動を広めようと、1908年にはこの日を「国際母の日」とする提唱がなされた。1914年にはウイルソン大統領が「母の日」制定を決め、議会も承認して正式のものとなった。日本にも1913年(大正2年)に伝わったが、キリスト教会関係者の間でささやかに行われるくらいで、一般には全く定着せず、第二次大戦後の進駐軍文化と共に再輸入されてようやく浸透していった。
「母の日」が日本になかなか定着しなかったのも当然であろう。この日だけこと改めて「お母さんありがとう」などと、子供ならまだしも大の男は気恥ずかしくて、聞いただけで逃げ出したくなる。ましてや未だ明治の気風を色濃く残した大正初めとあってはなおさらである。それにカーネーションだって出回っていなかった。
戦後もこの風習はアメリカ崇拝家の多かった都会地はまだしも、地方にはなかなか浸透しなかった。全国的に根づいたのは、大規模小売店が地方都市にも進出し「母の日には○○を贈りましょう」などといったキャンペーンを繰り広げる一方、園芸農家が増えて品種改良されたカーネーションが出現し、ビニールハウスが行き渡った昭和40年代も末になってからのことである。こうした供給側による商業主義が「母の日」浸透の原動力になった。しかしこの間、日本人の精神構造が徐々に変質し、「気恥ずかしさ」という気分を抱く度合いを年々薄れさせていったことも関係がありそうである。
このようにいかにもアメリカ人らしい芝居がかった行事だが、まあこういう風に日を定めて母親に感謝の意を表するというのは悪いことではない。そうでもしなければ、照れ屋で武骨を良しとする日本の男は、一生母親に感謝の意思表示をせずに終わってしまうかもしれない。
「母の日」が俳句の季語になったのはもちろん戦後のことで、虚子編「新歳時記」には未だに採録されていない(平成11年・増訂67刷)。伝統的な花鳥諷詠にはなじまないということなのであろうか。しかし、母の日を詠んだ句にはなかなか良いものが多い。真っ向から「お母さんありがとう」とは言えないけれど、俳句なら母への思いを表現しやすい。生の言葉ではなく、もっとずっと深いところから湧き出す肉親への愛情表現ができる。もっとも、いい加減な母親讃歌になってしまっては目も当てられない。安直なホームドラマに陥らないようにするには、形容詞など生の修飾語を極力用いないということであろうか。兎に角、母でも妻でも子でも、肉親を俳句にするのは実に難しい。
母の日やそのありし日の裁ち鋏 菅裸馬
母の日や大きな星がやや下位に 中村草田男
母の日や大方の母けふも疲れ 及川貞
母の日を過ぎて山椒の葉の強し 細見綾子
母の日の母包紙大切に 安良岡昭一
母の日や古き世を言ふ妻とをり 森田公司
母の日の筆談といふ贈り物 橋本敏子
母の日や身体髪膚傷だらけ 村上妙子
母の日や鏡のぞけば母の顔 瀬川秋子
母の日の大河は音もなく流る 木村日出夫