どうも見ただけで暑苦しくなるような字である。こういう言葉をわざわざ素材として取り上げるところが、俳句のユニークな点であろう。現代短歌はさておき、雅を尊ぶ和歌に「汗」が登場することは皆無と言っていいだろう。ところが俳句ではずっと昔から、まだ俳諧と呼んでいた三百年以上も前から汗を盛んに詠んでいる。卑俗な素材を用いて心情をうたう、ここに俳句の良さがあり、本質がある。
暑くなると人間は汗をかく。汗が蒸発すると気化熱によって皮膚表面の熱が奪われるから、これで体温を調節しているのである。暑熱の厳しい地方で激辛のカレーを食べるのも、発汗を促して体温を下げようという自然の智慧である。こうしてみると、「こんなに汗が出ちゃやりきれねえ」なぞと愚痴を言うのはぜいたくというものである。
汗を出すのは汗腺という皮膚組織の中を通っている管で、普通の汗を出すエクリン腺と、臭いがあって粘り気のある液を分泌するアポクリン腺の二種類ある。このエクリン腺から出る汗が体温調節に関係のある、普段私たちが「汗」と呼ぶものである。人間の身体にはエクリン腺が発達して体表面に二百三十万個も行き渡り、一日何もせずにじっとしていても〇・七リットルの汗が出る。まあ健康体なら一日平均三リットル、真夏に激しい運動をしたり筋肉労働をしたりすると一〇リットルもの汗をかく。
人間以外の動物で汗をたくさんかくのは馬やロバくらいで、猿がまあまあといったところだそうである。牛や豚は鼻の先だけに汗をかき、兎、山羊などには汗腺が無いらしく、犬、猫も足の裏に汗腺が少しあるだけで、人間のような汗はかかない。どうりで我家の老犬は夏中口を開けて長いベロを出し、はあはあやっている。舌先で涼を取っているのだ。
一方、アポクリン腺が出す汗(液)には粘り気があり、動物の種類によってそれぞれ異なる臭いがある。これは体温調節目的ではなく、主に個体識別や発情を異性に知らせる役割を担っているらしい。冬の終りから春先にかけて、雌猫が立ち木や柱などにしきりに体をこすりつけるのは、この匂いをつけて雄猫を招き寄せるためだという。
異性をだまくらかすに際して、言葉とかお金とか地位とかお化粧とか、さまざまな仕掛けや悪知恵を身につけた人間は、アポクリン腺に頼らずとも何とか相手がつかまるようになっている。そのせいであろうか、いつの間にか人間の体からはアポクリン腺が退化し、腋の下や陰部、肛門周囲にわずかに残るだけとなった。ただしエクリン腺から出る汗にも汗腺細胞の一部が混ざり、特有の臭気を放つ。青春期にはこの分泌量が多く、「青臭い」という表現もこういうことと関係がありそうである。
汗をかく、という現象には二種類ある。夏場や運動した時などにかくのを温熱性発汗、緊張した時にかくのを精神性発汗という。
温熱性発汗は手の平や足の裏を除く全身に生じる。じっとりするようなかき方を「汗ばむ」、全身びっしょりになるのを「汗みどろ」あるいは「汗みずく」、大粒に噴き出してぽたぽた垂れるようなのを「玉の汗」などと言う。
大人になると夏場以外は気になるほどの汗をかかないが、子供は春や秋にもかなりの汗をかく。夏の盛りなど、幼児がうたた寝している間に大汗をかいて体温が急に下がり、それがもとの寝冷えなどを起こすことがよくある。子供の発汗量は体重比では大人よりもずっと多く、それによる体温変化も激しい。だから昔の親は、子供が昼寝をしたら薄い夏掛けをかけてやり、素っ裸で跳ね回る子には「金太郎さん」と呼ぶ腹掛をさせたが、これは理にかなったものだったのである。しかし最近はエアコンが行き渡ったから、大人も子供もあまり汗をかかなくなった、真夏でもべたつかないから気分は良いが、こんな環境に育つ子供は汗腺が十分に発達せず、自立的に体温調節ができない身体になってしまうのではないか。その結果、のべつ風邪を引いたりお腹を壊したりするひ弱な人間が出来上がる。
精神性発汗は外気温には関係なく、精神的に緊張したときに出て来る汗で、手の平、足の裏、腋の下にかく。「手に汗を握る」「冷汗三斗」などという、いわゆる冷や汗である。はじめて大試合に臨む運動選手、大舞台に立つ若手俳優、あるいは大切な試験の口頭試問を受ける直前など、緊張すると、人は誰でも程度の差こそあれ、手の平がじっとり汗ばんで来る。
緊張すると手と足に汗をかくのは、人間が動物である証拠だとも言える。何か食えそうな物を見つけて、さあ取るぞという時に手足が滑っては掴み損なう。大敵に遭遇した時には両手を構え、両足を踏ん張る。その時、自然に手足に汗が出てすべりにくくするのだという。大仕事に取り掛かる時、半ば無意識に手に唾して「さあ来い」などと身構えるのも、太古の記憶が為せる業かも知れない。人間に飼われるようになって長い年月がたち、もはや獲物を獲る必要のなくなった犬や猫でも、四趾の裏にだけは汗腺が残っている。
そして、いざ試合だとか試験が始ってしまうと、精神的刺激が極度に高まることによって、逆に発汗が止まる。「夢中になると暑さを忘れる」、というのは生理的にも実証されている。このように極度に興奮、緊張した時に出る精神性発汗は季節に関係が無いから、「冷や汗」などは季語にならない。俳句に詠まれるのは、もっぱら夏場にかく健康的な汗である。
汗濃さよ衣の背ぬひのゆがみなり 宝井 其角
紺の汗手へ流れけり駕の者 小林 一茶
汗ふく親銭数ふる子舟は着きぬ 正岡 子規
居ながらに汗の流るる日なりけり 池内たけし
旅人は汗も涙も独り拭きぬ 中村草田男
汗の子の額の髪をかきわけつ 中村 汀女
汗ばみて余命を量りゐたらずや 石田 波郷
哀しく可笑し汗の電車に揉まれゐて 石塚 友二
蹴轆轤の汗が眼に入る怺へどこ 坂巻 純子
鹿をどり鹿となりきる頃の汗 中原 道夫