7月6日から8日まで、東京・入谷の鬼子母神境内で開かれる。江戸時代、このあたりは低湿地で「入谷田圃」と呼ばれ、稲の田圃の他に蓮田も多く、朝顔をはじめ花卉栽培が盛んに行われていた。
江戸は八代将軍吉宗の享保五年(1721年)には町人50万人、武士50万人の百万都市となっていた。その頃のロンドン、パリのほぼ二倍の人口で、もちろん世界一の大都市である。火災こそひんぱんに発生したが、治安は良く、水道が行き渡り、芝居小屋や各種出版物も盛んに発行されるなど、文化面でも進んでいた。特に庶民階級までが花卉の鉢植えを楽しんでいたというのは当時他国に例を見ないことであった。江戸は1700年代に入ると、それまで武士や僧侶階級の独占だった花卉栽培趣味が庶民階級にまで広がり、以後幕末まで連綿と、稀に見る園芸都市の様相を呈していたのである。
もっとも当時の庶民の住環境からすると、軒先に鉢植えの一つも置かなくては息が詰まってしまうという事情もあったようである。何しろ江戸の面積のほぼ70%は武家地で、15%が寺社地であった。人口の半分を占める50万人の町人は残り15%の地面にひしめき合っていたのである。しかも名主、地主、有力商人などが広い家屋敷を構えるから、7、8割の町人は借家、部屋借りのいわゆる「店借り」である。一戸建てを借りられる人は少なく、ほとんどは長屋住いであった。
深川の江戸東京博物館に再現した長屋があるが、とても面白い。当時の長屋は画一的で、長さ九間、幅二間の細長い建物を薄い板壁で六等分したものが一軒である。つまり一軒は間口一間半(九尺)、奥行き二間の三坪しかない。上半分に障子紙を貼った引戸を開けて入ったところが一畳半の広さの土間で、正面は四畳半の座敷への上がりかまちになり、その横手の片隅には竃と小さな流しが据えてある。もちろん土間と座敷の仕切りも無ければ、座敷には押入も無い。便所も井戸(これが地下を通る木樋で流れて来る水道)も長屋の一画にある共同のものを使う。こういう家に親子五人の平均世帯、場合によってはお爺さんお婆さんつきであるから、まあ互い違いになって寝るのが精一杯。日のある内は子供は外で遊び、大人は稼ぎに出かけ、朝夕は狭い路地に面した軒先で小さな植木鉢に水をやるくらいが唯一の息抜きだったのではなかろうか。
だから鉢植えと言っても手のかかる盆栽などには縁がない。季節の草花の鉢植えが好まれた。元禄から享保、寛政頃までは、町人に園芸愛好家が増えたとはいっても、まだ余裕のある層までだったらしいが、1800年代初めの文化文政時代になると裏長屋にまで流行の波が押し寄せて来た。その頃、朝顔ブームが起こった。
朝顔はきれいで涼しげだし、何よりお手軽な鉢物であることが受けたようである。水やりを欠かさなければ次々に花を咲かせる。そして何より好都合なのは、秋になれば種をつけて、自然に枯れてくれることである。これできれいさっぱりになるところが、狭小住宅の住民には好都合である。
というわけで当時の下町では5月(今の6月)半ば頃になると、入谷、下谷、浅草、本所、深川などに多かった植木屋が、こぞって朝顔の鉢を売り始めた。6月上旬になると早朝、天秤棒に朝顔鉢を振り分けにした朝顔売りが町内を振れ回る。「朝顔の萎れぬうちに売らばやと己が声をからしてぞ呼ぶ 香気亭煉吉」であり、「売れぬ日は萎れて帰る朝顔屋」であった。入谷の鬼子母神境内では朝顔市が開かれ、大勢の愛好家が早朝から押し掛けて賑わった。丁度、近くの田圃や池で蓮の花が咲き出す頃合いともなると、人々は早朝に家を出て朝顔と蓮を楽しんでから鴬谷方向に足を伸ばし、名物豆腐料理「笹の雪」で今で言うブランチを楽しむ。ちょっとした贅沢気分を味わう絶好の機会となった。
朝顔ブームは大変なものだったらしく、加賀千代女の作と伝えられる「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」が誰でも知っている句になり、歌麿をはじめ浮世絵画家たちも競って朝顔を描くようになった。朝顔マニアも輩出し、大輪の花を咲かせるものや、色変り、果ては縮れた葉や花びらが糸のようになったり八重咲きになったりする変化朝顔の作出に血道を上げる人も出て来た。珍奇な朝顔を作って品評会を開き、優劣を競い、優品にはとんでもない高値がついて売買される。この第一次朝顔ブームは天保期(1840年代)まで続いた。その後10年ほど沈静化したが、嘉永から安政期に特に変化朝顔を持囃す第2次ブームが、明治10年頃から大正初めにかけて変化朝顔と大輪を競う第3次ブームが訪れたという。
今日でも変り咲きの変化朝顔を栽培する人が僅かだが残っている。平成15年の春、渡辺好孝さんという高校の先生を定年退職して変化朝顔に取組んでいる人が、テレビ朝日のスタッフと一緒に、大森にある家内の実家を訪ねて来た。家内の母方の祖父が明治から大正にかけて、変化朝顔の愛好家として有名だったらしく、義母にその思い出話を語ってもらいたいと言うのであった。その頃、90歳の義母は時々受け答えがとんちんかんになったり、同じことを何度も言うようになっていた。「お母さん、大丈夫かしら。テレビカメラに向かって変なこと言ったりしないかしら」と家内は落着かない。「それじゃ付き添って一緒に出演したらどうかね」「まさか」などと言いながら、気になるのだろう、渡辺さんの著書「江戸の変わり咲き朝顔」(96年、平凡社発行)を買って来て熱心に読んでは、母親と電話で何やかや話していた。撮影当日、どやどやと撮影隊がやって来た。義母は堂々と、かつにこやかに、祖父遺愛の朝顔鉢など取り出したりして、悠然と思い出を語ったという。後日、放映されたのを見たが、なるほどしっかりしていた。人間90年も生きているとあがるなどということが無くなってしまうようである。
渡辺さんの著書を見たり、家内の話を聞いたりしたところ、幕末明治期の朝顔マニアというものは大変なものであったらしい。家内の祖父の鈴木正吉は安政2年(1855年)生まれで昭和22年に92歳で亡くなっている。代々続いた木場の材木問屋で、恐らく大正の震災の後のことだろう、日本で始めて南洋のラワン材を輸入したという。家内が物心ついた敗戦前後はもう材木も朝顔もすっかり忘れて、可愛い孫娘に赤い鼻緒をすげた下駄を作ってくれたりする好々爺であった。この爺さんが子供の頃から朝顔マニアだったというのである。
「江戸の変わり咲き朝顔」によると、明治元年、鈴木正吉少年は入谷の植木屋成田屋留次郎から変化朝顔の逸品を一鉢十四両二分で買い受けたという。成田屋は本名山崎で、団十郎ファンだったことから成田屋を名乗った。朝顔作りの名人で、えび茶色の朝顔を生み出し「団十郎」と名付け、大当たりをとった。しかし、正吉少年の買った朝顔はいくら名品とは言え、とんでもない値段である。一両は間も無く明治新政府によって「圓」と呼称が変わったが、とにかく明治元年の東京深川の正米市場での正米一石当たりの平均相場が5円96銭だったという記録があるから、米二石四斗分の金額である。大威張りの官員さんの月給が5円である。13歳の子供の買物とは信じられないものだが、ブームというものは親まで巻き込む魔力を持っているのだろうか。ちなみに当時の入谷の朝顔市で売られていた普通の行灯仕立ての朝顔は小さな鉢なら3銭くらい、大きな鉢で上等品でも10銭から15銭程度であった。
長じて正吉氏は東京朝顔研究会の重鎮となり、日本の風物に魅せられてワシントン・ポトマック河畔に桜並木を作ったイライザ・シドモア女史が日本滞在中に正吉氏に面談した様子を随筆に書き残しているという。こうして子供まで巻き込んだ朝顔ブームだったが、大正5年頃にはすっかり下火になってしまう。入谷あたりは宅地開発が盛んに行われるようになり、植木屋は日暮里、さらには江戸川、葛飾あたりへ引っ越してしまい、名物の朝顔市も行われなくなってしまった。今ある入谷の朝顔市は昭和30年代、土地の有志たちの手で復興されたものである。
朝顔を見にしのゝめの人通り 久保田万太郎
市へ出す朝顔車夜をこめて 水原秋櫻子
眠る街朝顔市へつづきけり 徳永山冬子
明け方の雨の白さや朝顔市 菖蒲あや
日射し来し朝顔市の匂ひかな 今井千鶴子