幕末の日本に西洋医学、博物学を根づかせたシーボルトが、帰国後、日本の植物図鑑を作った際に、愛する日本妻おたきさんをしのんでヒドランゲア・マクロフィラ・オタクサという学名をつけたという話が伝わっている。しかし日本産アジサイは、シーボルトより五〇年も前に長崎出島の商館医として来日したスウェーデンの植物学者・医学者ツンベルクが、著書「日本植物誌」で紹介したものと同一種であることが判明し、今日ではアジサイの学名にオタクサは使われていない。ところがシーボルトとおたきさんのロマンスは日本では後世に語り継がれ、それがヨーロッパに伝わり、この「オタクサ」は日欧双方に長く生き続けた。日本原産の植物で学名に日本語が使われているのは、苔や菌類のような草を除けば、このアジサイとサザンカ(山茶花)くらいなものであろう。ちなみにサザンカの学名はCamellia Sasannqua Thunb.で、欧米の園芸愛好家の間では「サザンカ」で通じるが、残念ながら紫陽花は「ハイドランジア」が一般的である。
万葉集にも出てくるように、古くから日本人に好まれた花だが、大昔の紫陽花は四片の装飾花(萼花)がつぶつぶで本当の花の回りを額縁のように取り囲む、地味な感じのガクアジサイだった。ところがアジサイは挿し木で簡単に増えることから、立派な装飾花をつける種類を選抜育種して、江戸時代末には今日見るような鞠状の花が咲く園芸品種がたくさん生れた。
アジサイはうっとうしい梅雨時の庭を明るくしてくれるというので、庭木としてもてはやされるようになった。また、丈夫で日蔭でも育つから、長崎の町中のあちこちにもたくさん植えられていて、これがシーボルトの目に止ったに違いない。
紫陽花は白っぽい花びら(本当は萼)が青になり、紫になり、やがて赤になる。このように日を追って花色が変化するところから「七変化」「八仙花」とも呼ばれる。一般的には土壌が酸性だと青い花が咲き、アルカリ性だと赤くなると言われているが、これは土中のアルミニウムがイオン化する際に酸性・アルカリ性が関係して来るものらしく、酸性土壌であってもアルミニウムの量が少なければきれいな青に発色しないという。
またアジサイは丸く盛り上がるように咲くので「手毬花」、花が四弁なので「四葩(よひら)」という呼び名もある。この手鞠の形に咲く紫陽花は四片の花びらと見えるものが萼で、その中心に小さな蕊のように頼りなさそうにあるのが本当の花である。とにかく紫陽花は花の少ない梅雨期に咲くので、とても目立ち、人気がある。
ところで、近頃の山菜ブームで注意しなければいけないのは、紫陽花は決して口に入れてはいけないということである。鮮やかな緑色の新しい葉はいかにも美味そうに見える。何も知らない板前が新しがって、紫陽花の葉を刺身の飾りにしたりすることがある。時にはこれを天ぷらの材料にする無謀なのも出て来る。それで毎年何人かの食中毒患者が出る。紫陽花の葉は青酸化合物を含んでおり、食べると食中毒を起こし、ひどいときには眩暈を起こして倒れたり、意識不明になったりする。
シーボルトが紹介して以来、紫陽花は幕末から明治期にかけてヨーロッパ各地に続々と送られた。それらがオランダ、ドイツなどで改良され、小型の鉢花になり、本来の日本産に比べるとピンクや濃青色が派手な「西洋アジサイ」(ハイドランジア)に生まれ変った。この西洋アジサイが日本に輸入され、人気を博している。若い人たちの中には紫陽花と言えば鉢植で室内で鑑賞する花だと思っている人も多いようだ。
さらに最近は、野生種として日本の野山に自生していたガクアジサイの素朴さが見直され、それを改良して花びらの変形したものや、長い葉柄が伸びた先に小さな花を星をちりばめたように咲かせる品種なども生れている。
このように紫陽花は昔から和歌や俳句の素材になり、愛好家も少なくなかったのだが、色が変わることが「変節」「心変わり」に通じるということから、今日のように表庭の真ん中に堂々と植えられたりしなかった。裏庭や木戸口などにさりげなく植えられることが多かった。青紫の堂々とした花でありながら、なんとなく寂しさも感じさせる。折からの梅雨とも重なって、雨、水などと縁が深い。華やかさの裏にひそむ愁いや淋しさといったところが紫陽花の本意と言えようか。
紫陽花の末一色となりにけり 小林 一茶
あぢさゐや仕舞のつかぬ昼の酒 岩間 乙二
紫陽花や白よりいでし浅みどり 渡辺 水巴
紫陽花に秋冷いたる信濃かな 杉田 久女
あぢさゐの雨を寒がる女かな 野村 喜舟
紫陽花や登れといへる如く階 星野 立子
紫陽花はおもたからずや水の上 富沢赤黄男
紫陽花が首級のごとし関ヶ原 田川飛旅子
重なりてあぢさゐ夜を領すなる 中川 宋淵
紫陽花や雨の中着く女客 鈴木真砂女