柳(やなぎ)

 春風に浅緑の若葉をそよがせる柳は、桜と並んで春を代表する植物として、古くから和歌に詠まれ、俳諧にも受け継がれた。古今集の素性法師の歌「見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」がつとに有名だが、奈良平安の昔から平成の現代まで、柳は春を告げる木である。

 和歌や俳句に詠まれる柳はおおむね「枝垂れ柳」のことだが、柳にはいろいろな種類があり、世界にざっと四百種、日本にも80種類ほどあるという。その中にはもちろん日本原産の柳もあるが、枝垂れ柳は奈良時代に中国からもたらされ、都の寺院や宮殿の庭木、川べりの道などに植えられたものが大いに受けて、全国的に広まったものなのだという。柳は雌雄異株で、新芽が出る前に花が咲き、綿をつけた種が風に乗って空中をただよう。これを「柳絮(りゅうじょ)」と呼んで、やはり春の季語としている。

 枝垂れ柳のように枝を垂らさず、真直ぐにしなやかな枝を伸ばすヤナギもある。早春に銀色のビロードに包まれた蕾をつけるネコヤナギやカワヤナギ、ハコヤナギ、そして、昔はどこの家庭にもあった行李の材料となるコリヤナギなどである。これらは中国では「楊」と言い、絮(わた)をよく飛ばす。枝垂れるものを「柳」と呼び、まとめて「楊柳」と言っているのだが、日本ではどちらも一様に柳と呼んだり書いたりしている。

 枝垂れ柳も中国では柳絮を飛ばすと言われるが、日本ではほとんど飛ばない。それは、日本の枝垂れ柳がほとんど雄の木ばかりだからなのだという話を聞いたことがある。嘘か本当かはっきりしないが、奈良時代に中国大陸から持って来られた枝垂れ柳が雄だったからというのである。柳は挿し木でよく繁殖するから、親木の枝から苗木が簡単に取れる。それでどんどん増やしていったところが、当然のことながら日本全国どれもこれも雄の木ばかりということになったというのである。日本中の枝垂れ柳のDNA鑑定をしたら親木はただ一本ということになるかも知れないが、そんな馬鹿馬鹿しい調査は行われそうもない。

 そう言えば、日本ではごくありふれたアオキという庭木がある。家の裏庭や公園の片隅には大抵植えられている。緑色、時には斑入りのつやつやした葉を茂らせ、冬には楕円形の真っ赤な実をつける。真冬でも生き生きと緑の葉を輝かせ、そこに真っ赤な実をつけるのがとても印象的なので、「青木の実」は冬の季語になっている。幕末から明治に日本にやって来たヨーロッパ人がこれに魅せられて故国に持ち帰り、せっせと挿し木で増やし、庭園樹や室内観葉植物として大流行、たちまちヨーロッパ中に広まった。ところが、どういうわけかイギリスでもドイツでも赤い実がさっぱり成らない。それは、アオキも雌雄異株で、このガイジンが苦心して持ち帰ったものが雄木だったからと言うのである。近代でもこういうことがあったことからすると、奈良時代に日本に来た枝垂れ柳が雄ばかりだったという話も満更でたらめではないかも知れない。

 中国人も枝垂れ柳が大好きで北京の故宮(紫禁城)や杭州の西湖、揚州の痩西湖などにはたくさん植えられている。しかし、日本人は中国人以上に柳に惚れ込んだようである。奈良時代から至る所の庭園や水辺に植えられ、江戸時代には川べりや池畔に柳は無くてはならないものになった。柳が無ければ幽霊も出られないということになった。そして文明開化の東京の目抜き通り、銀座は柳並木で飾られた。「柳青める日、燕が銀座に飛ぶ日……」である。

 柳という字を用いた言葉も昔から一般に広く使われていた。柳眉、柳腰はもともとは中国から伝わった熟語だが、「やなぎのまゆ」「やなぎごし」と訓読みになって日本の言葉になった。

 「やなぎごし」と言えば、なよなよとした美女を形容する言葉になっている。しかし、もともとの「柳腰」は唐時代に遣唐留学生などが持ち帰った言葉であろう。となると、この言葉のニュアンスは「なよなよ」ではなさそうな気がする。当時の美人の代表である楊貴妃、あるいは則天武后、あるいは唐三彩の美女俑など、どれを見ても、唐時代の美女はグラマーで、腰の肉付きは偉大である。確かにしなやかではあるが、ちょっとやそっとでは折れそうもない。どうやら「柳腰」というのは、曲りくねりながらも堂々たる大木になり、しなやかに枝葉を茂らせる柳の木そのもののイメージであり、それに対して、日本の「やなぎごし」はほっそりとして微風にもそよぐ柳の細枝あるいは、頼りなく繊細な葉のイメージから生れたもののようである。

 もっとも中国でも時代が下るにつれて、美女の概念が変化し、明清時代になると、日本と同じように鈴木春信の描くようなほっそりタイプがもてはやされるようになった。三遊亭円朝の怪談噺「牡丹灯籠」の種本になった、明の「剪灯新話」の挿絵の美女などは、唐時代の「柳腰」ではなく、完全な「やなぎごし」である。

 ともあれ、中国からやって来た柳はすっかり日本に同化し、まるで日本原産の木のような扱いを受けて詩歌にうたわれるようになった。芭蕉は「奥の細道」の中で、那須野が原を突っ切って芦野の里(栃木県那須町芦野)にたどり着き、「田一枚植ゑて立去る柳かな」と詠んでいる。この柳は謡曲「遊行柳」で有名になった名所だが、それよりずっと以前に西行が立ちよって「道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」と詠んだという伝説がある。西行をほとんど信仰対象のように尊崇していた芭蕉は、何としてもこの柳を見て句を作りたかったようである。柳は西行にとっても芭蕉にとっても、桜に次いで重要な歌材だったようである。

 青柳、楊柳、枝垂柳、糸柳、川柳(かわやなぎ)、柳の糸、などと詠むこともある。また柳は町中の人目に触れる場所に多くあるせいか、四季それぞれに異なる風情を醸し出すためか、「柳茂る」「葉柳」が夏の季語、「柳黄ばむ」「柳散る」は秋の、「柳枯る」「枯柳」は冬の季語というように、1年中、句材になっている。

  八九間空で雨ふる柳かな   松尾芭蕉
  引きよせて放しかねたる柳かな   内藤丈草
  やなぎから日のくれかかる野道かな   与謝蕪村
  むっとしてもどれば庭に柳かな   大島蓼太
  振り向けばはや美女過ぎる柳かな   小林一茶
  瓦斯燈にかたよって吹く柳かな   正岡子規
  煙草屋の娘うつくしき柳かな   寺田寅彦
  ゆっくりと時計のうてる柳かな   久保田万太郎
  門の灯や昼もそのまま糸柳   永井荷風
  卒然と風湧き出でし柳かな   松本たかし

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