中国原産のバラ科の小高木で、おそらく弥生時代あたりに中国からもたらされたのではないかという。原種に近い野梅(やばい)が早くから日本国内いたるところに広がり、あたかも日本固有の植物のような感じである。九州にはもともと野生種があったとの説もある。この野梅が改良されて、主として花を観賞する目的の花梅と、梅干しなど実を食用にする目的の実梅ができた。今日では実梅、花梅合わせてざっと三百種類くらいあるという。
五弁の花びらは多くは白あるいは淡紅色で、まだ冬のうちから咲き出すものもある。寒い最中に襟巻きなどぐるぐる巻いて、梅が一輪ほころびているのを誰よりも先に見つけようという、風流な試みが昔から行われて来た。これを「探梅」あるいは「探る梅」「春信」と言い、冬の季語になっている。「春信」とは春の便りの意味であり、梅が春を告げる使者として文人墨客に重要視されてきたことが分かる。また白梅よりは開花期が遅いが、いかにも春らしい感じの紅梅もある。「紅梅」はそのあでやかさ、春の暖かさを特筆して、梅とは分けて独立の季語になっている。
常緑樹は別にして、あらゆる木々がまだ枯れ木の状態で立っている早春に、梅は美しくかぐわしい香りの花を咲かせる。万葉時代には、春の花としては桜よりも梅の方がずっと上位に置かれ、さかんに歌に詠まれた。奈良朝の貴族たちが競い合うように梅の歌を詠んでいたことが、「万葉集」を見ると分かる。その「万葉集」巻五には、大宰帥として現在の福岡に赴任していた大伴旅人(天智4年─天平3年、665年─731年)が、天平2年1月13日、自邸に山上憶良をはじめ仲間を大勢招いて「梅見の宴」を行い、皆で梅の花を詠みあった歌が三十二首も載っている。「だざいのそつ」すなわち太宰府の長官は西国を統べる重要なポストで、ことに当時は大陸文化を受け入れる窓口でもある要職であった。旅人はこの翌年、従二位大納言に昇進して都に戻り、没した。66歳。当時としては長生きである。
その歌会で主人の旅人は『わが苑に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも』と上品におとなしく詠んでいる。仲間や部下が大勢集まって、梅見で一杯とわいわいがやがや楽しんでいるのを、いかにも満足そうに眺めている気分が伝わって来るようだ。筑前守山上憶良は『春さればまづ咲く宿の梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ』という単身赴任者みたいな歌を詠んでいる。『春されば木末隠りて鴬ぞ鳴きていぬなる梅が下枝に』(少典山氏若麻呂)というのがあるところを見れば、どうやら「梅に鴬」という付き物はこの当時既に出来上がっていたようである。『梅の花夢に語らくみやびたる花と吾思ふ酒に浮べこそ』というのや、『年のはに春の来たらばかくしこそ梅をかざして楽しく飲まめ』『梅の花手折りかざして遊べども飽足らぬ日は今日にしありけり』という楽しい歌もある。まさに現今の会社あげてのお花見会と変らぬ雰囲気だったのかも知れない。
これが平安時代になると、梅はもっとずっと上品に詠まれるべき対象になったようである。そして歌の作り方が技巧的になるにつれて、梅の花の咲いている美しさを単純に歌い上げるだけでなく、その「香り」を歌うことが本筋のようになっていった。これはこの頃、「花」と言えば桜を指すようになり、梅と桜の主客が入れ替わったことが影響しているのだろうか。梅は爛漫ではなく、むしろひっそりと咲く風情が愛でられるようになっていった。
「古今集」に凡河内躬恒の梅の歌がある。『月夜に「梅の花を折りて」と人のいひければ折るとてよめる、月夜にはそれとも見えず梅の花香をたづねてぞ知るべかりける』というものである。月光がふりそそいでしまうと梅の花びらも月の白い光りにまぎれてしまうけれども、香りをたどって行けば在りかが判るんですよねという、技巧も極まれりといったところである。
もう一つ有名なのが『色よりも香こそあはれとおもほゆれ誰が袖ふれし宿の梅ぞも』(よみ人知らず)である。この歌から後世、「たが袖」という名前の匂い袋が生まれ、その形をとった楊枝入れが出来、女性の豪華な衣裳を衣桁に何枚も掛けた図柄の「誰が袖屏風」や地唄の曲名にまでなった。梅見も日中ではなしに夜の闇の中で香を聞きながら愛でるのが最上、というのだから、かなり屈折している。話が極端に飛ぶが、虎屋の羊羹に、漉し餡の中に小豆粒が見え隠れする「夜の梅」というのがある。これも香りをよすがに闇の中で梅花を探るという古今集の伝統から採った命名であろう。
「新古今集」になると、さらに一段と技巧が深味を増し、いわゆる幽玄世界に入って、「梅が香」も感情移入がオーバーになっていく。『大空は梅のにほひにかすみつつくもりもはてぬ春の夜の月』(新古今40・藤原定家)とか『梅の花なに匂ふらむ見る人の色をも香をもわすれぬる世に』(同1445・大弐三位)という具合である。
これが俳諧になると梅もぐっと庶民感覚に近づく。談林派の総帥西山宗因が『さればここに談林の木あり梅の花』と高らかに詠んでいるように、梅は俳諧で詠むべきものという意気込みすら感じさせる。上島鬼貫の『山里や井戸のはたなる梅の花』、松尾芭蕉の『むめが香にのっと日の出る山路かな』、服部嵐雪の『梅一輪一輪ほどの暖かさ』などを口ずさめば、本当に目の前に咲いている梅がそのままの姿で現れて来る。
芭蕉は新古今の影響をかなり強く受けたと言われ、伝統である「梅が香」を詠んでいる。けれどもこの香りは、後に続く「のっと日の出る」というくだけた表現もあって俳諧的であり、新鮮な響きをもって迫って来る。与謝蕪村も梅が大好きだったようで、『二もとの梅に遅速を愛すかな』という現代人にもそのまま通じる感覚の句や、『白梅や墨芳しき鴻臚館』、辞世の『しら梅に明る夜ばかりとなりにけり』の名句を残している。
現代俳句でも梅は盛んに詠まれている。春といってもまだ寒い時期に、百花に先駆けて咲く凛とした雰囲気、高貴な花姿と枝ぶりの面白さ、上品な香りなどが強い印象を与えるのであろう。あまりひねくった句は少なくて、ストレートに素直に詠んだものが多い。ひねりを利かせた諧謔味の方は実になってからの、それも「梅干し」という夏の季語に譲っている。
梅には傍題が非常に多い。野梅、白梅、臥竜梅、残雪梅、残月梅、枝垂れ梅、豊後梅など、その種類によるものの他、梅が香、夜の梅、闇の梅も季語とされている。梅園、梅林、梅見、観梅、梅の里、梅屋敷、梅の宿というのもある。さらに、伝説や逸話に登場する梅も季語になっている。たとえば、紀貫之の娘紀内侍の庭の梅が見事だというのを聞いた村上天皇が清涼殿に移植させたところ、内侍は『勅なればいともかしこし鴬の宿はと問はばいかが答へむ』(天子さまのご命令はおそれ多いことではございますが、鴬に宿はどこに消えたんだろうと聞かれましたならば、どう答えたらよろしいのでしょう)と詠んだ。このウイットに降参した天皇が梅の木を返したという伝説の「鶯宿梅」、菅原道真が太宰府に左遷となって家を出る時『東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ』と詠んだら梅の木が筑紫まで飛んできて咲いたという「飛梅」などが有名である。一方、梅の咲く月ということで「梅二月」、青空を背景にした白梅がことに印象的なことから「梅日和」というのもある。また鉢に植えられた盆栽仕立ての梅は特に「盆梅(ぼんばい)」と言い、これも江戸時代からよく使われてきた。
梅若菜鞠子の宿のとろろ汁 松尾芭蕉
白梅や墨芳しき鴻臚館 与謝蕪村
二もとの梅に遅速を愛すかな 与謝蕪村
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり 与謝蕪村
梅さくや手垢に光るなで仏 小林一茶
山川のとどろく梅を手折るかな 飯田蛇笏
梅一枝つらぬく闇に雨はげし 水原秋櫻子
勇気こそ地の塩なれや梅真白 中村草田男
梅も一枝死者の仰臥の正しさよ 石田波郷
梅挿すやきのふの酒のありし壜に 石川桂郎