踏青(たふせい)

 日常会話には滅多に出て来ない言葉である。詩語とは言っても現代詩には用いられることはなく、今日ではようやく俳句と短歌の世界にひっそりと息づいている。「とうせい」と読み、訓読して「青き踏む」とか「青踏むや」というかたちで詠まれることが多い。

 踏?というのは古代中国の行事に由来する言葉である。旧暦三月初めの巳の日に山野に出て、萌え出づる草の上で宴を張る春恒例の行事であった。この旧暦三月最初の巳の日は「上巳(じょうし)」と言い、五節句の一つであり、昔は宮中や上流貴族階級、文人たちは流れに盃を浮かべ歌を詠む「曲水の宴」を張った。またこの日は女児の御祝いで雛祭をした。雛祭の行事はその後、上巳の日ではなく三月三日に固定され、今日に至っている。

 今年平成二十三年で言えば、旧暦三月の上巳の日は四月八日である。二十四節気では清明に入って三日目、万物春の気配に包まれ、桜、桃をはじめ草花が咲き始め、何も無かった地面に緑の草が生える時候である。

 昔の人ならずとも、青空の下、黒茶色のむき出しの地面に草が萌えて緑になり、木々の新芽も動き出すのを見ると、そこに自然界の玄

妙不可思議を感じ、溌剌とした気分になる。「踏青(青き踏む)」は、そうした万物甦る精気を身のうちに取り込む意味合いを持つ行事であった。それが奈良時代に唐から日本に伝わり、春の野に出でて楽しむ行事となった。

 そうした故事を知らなくても、春が来て木々の芽が動き、野原にハコベ、ヨモギ、ヨメナなどが生え初めると、心が浮き立ち、つい散歩などしたくなる。そういう気分で春の光を浴びながらピクニックする、というのが「踏青」という季語の持ち味である。

 ただし「野遊び」「山遊び」「ピクニック」「草摘む」などは、それぞれ季語として独立しており、「踏青」とは微妙なニュアンスの相違がある。「ピクニック」や「草摘む」といった具体的な行動を表す言葉に比べると、「踏青」は古式を踏まえた優雅な趣を備えており、詠嘆の情を含んでいるようだ。言い換えれば、実際にやることは「野遊び」「ピクニック」と同じでも、単に身体的な喜びにとどまらず、精神的側面が強調されている。

 厳しい冬の間、寒さに縮こまっていたが、青々としてきた自然界の動きに誘われて外に出て来た。萌え出る草を踏んで駆け出したり、胸一杯に新鮮な空気を吸うと、身も心も解き放たれたような気分になる。今年も緑生え初める季節が巡って来たのだなあ、という回春、蘇生の思いが込められている季語である。


  踏青や裏戸出づれば桂川        内藤 鳴雪
  踏青や古き石階あるばかり       高浜 虚子
  とこしへの病躯なれども青き踏む    川端 茅舎
  振袖はよきかも振って青き踏む     山口 青邨
  青き踏む左右の手左右の子にあたへ   加藤 楸邨
  青き踏む遠き一人を見失はず      細木芒角星
  青き踏む丘のつづきや法隆寺      岩木 躑躅
  青き踏む背骨一本たてとほし      加藤 耕子
  踏青ややまのべのみちここにあり    相馬 黄枝
  青き踏むどこにも地雷なき青さ     蛯子 雷児

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