鳥帰る(とりかえる)

 秋にシベリアや中国東北部など北方から渡って来て、比較的暖かな日本の冬の野山や湖沼で休養し、十分栄養を蓄えた野鳥は、春になると繁殖のためにまた北の故郷目指して帰って行く。これが「鳥帰る」で、仲春の季語である。

 鶴や白鳥、雁、鴨などの大きな鳥ばかりでなく、ツグミ、ジョウビタキなどの小鳥も秋にやって来ては春に帰る。本能というものなのだろうが、毎年同じ季節にやって来て、判をついたように同じ頃に帰る。だから昔の人たちはこれを暦に取り入れ、農作業や暮らしの目安にした。昔の暦に二十四節気と七十二候というのがある。二十四節気とは一年をほぼ十五日ずつ二十四に分けて季節変化を分かりやすくしたもので、七十二候は節気をさらに五日ずつに細分化したものである。

 二十四節気の最初は旧正月の始りである「立春」(太陽暦の今日では二月四日頃)で、そこから数えて四番目の節気、つまり旧暦三月の前半を「清明」と言う。太陽暦ではおおむね四月の前半になる。春の気分横溢し、桜をはじめさまざまな花が咲き、緑萌え始める頃合いである。この清明の真ん中の五日間(清明次候)は七十二候で「鴻雁北(こうがんきたす)」と名付けられている。雁や鴨が北へ帰る頃合いで、種蒔きの時期だという知らせである。

 「鳥帰る」という季語は、「鳥雲に入る」(通常「鳥雲に」と略して使われる)という有名な季語とほぼ同じ趣の言葉である。かなり古くから使われ、曲亭馬琴編の「俳諧歳時記栞草」にも春之部三月に「鳥帰(とりかへる)」が載っており、その解説代りに「千載集」の『花は根に鳥は古巣にかへる也春のとまりをしる人ぞなき』という崇徳院御製を掲げている。「鳥帰る」の傍題として「小鳥帰る」「鳥引く」「引鳥(ひきどり)」がある。

 「鳥帰る」「鳥雲に」という季語の本意は「古巣に帰る」という点と「春深まる」というところにあるようだ。古今の名句を見ると、故郷を懐かしんだり、帰る鳥の群れが夕日を浴びてシルエットになった景色に春を感じたりしているものが多い。さらにそこから想念がふくらんで、幼い頃の思い出につながっていったりもする。

 「鳥帰る」と「鳥雲に」の相違をあえて言えば、「鳥帰る」がより実景に近く、「鳥雲に」の方がより抒情的な感じである。

 「鳥帰る」は、その反対の秋の季語である「小鳥来る」「渡り鳥」「鳥渡る」が、秋のしみじみとした少し寂しい感じを漂わせているのに対して、日に日に暖かさを増す温度変化が作用しているのか、ほのぼのとしており、母なる地を目指すのだという懐かしさを感じさせる。しかし「帰ってしまう」という寂しさが先に立つせいか、歳時記の例句にはやはり寂しいものが目につく。だが本来、鳥は本能という自然の摂理に導かれて北へ帰るのだから、この季語をもってしてセンチメンタルな場面を詠むのは的外れに思う。それよりはむしろ「また秋にやって来いよー」という感じで、見送る人間も本格的な春の到来を楽しんだ方がいい。


  鳥帰る水と空とのけぢめ失せ      沢木 欣一
  鳥帰るこんにゃく村の夕空を      飯田 龍太
  鳥帰るいづこの空もさびしからむに   安住  敦
  鳥帰る無辺の光追ひながら       佐藤 鬼房
  米山のはづれに海や鳥かへる      上村 占魚
  北窓にありあまる空鳥帰る       原田  喬
  滅びたる山河とがめず鳥帰る      秋山 卓三
  帰る鳥しんがりを行く父と母と     中村  博
  墳丘のやさしきくびれ鳥帰る      猪俣千代子
  鳥帰る終の住みかなど要らぬ      伊藤 昌子

(鳥雲に入る)
  鳥雲に入りて草木の光りかな      高桑 闌更
  雲に鳥人間海に遊ぶ日ぞ        小林 一茶
  鳥雲に隠岐の駄菓子のなつかしき    加藤 楸邨
  鳥雲に水の近江を故郷とし       大橋櫻坡子
  鳥雲に入るここよりは日本海      福永 耕二
  鳥雲に入るおほかたは常の景      原   裕
  鳥雲に人みな妻を残し死す       安住  敦
  鳥雲の某日水を描き暮らす       橋  閒石

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