凧(たこ)

 昔、東京や横浜の住宅街のあちこちにまだ空地というものがあった頃、元旦から七草にかけて、男の子たちは盛んに凧上げをして遊んだ。車の数も少なかったから、女の子たちは安心して家の前の小道で羽根つきをしていた。1970年代半ば頃までは、こうした正月風景はどこの町に行ってもめずらしくなかった。

 地方の町へ行けば今でも凧揚げと羽根つき風景が見られるのだろうか。それとも日本全国が都市化してしまって、子供達の遊びも変り、家の中にこもってコンピューター・ゲームということになってしまっているのだろうか。

 凧揚げや羽根つきが廃れてしまったのを淋しがるのは、老人特有の感傷だと言われるかも知れない。世の中が進んで、今はもっとずっと面白い刺激的な遊びがたくさんあるから、子供達の嗜好がそっちに移ってしまったに過ぎず、それをとやかく言う方がおかしいのかも知れない。

 ただそう言われても、やはり子供達が外で元気に跳ね回っている風景が少なくなったのは何とも淋しい。子供たちが外で遊ぶよりも屋内での遊びを好むようになったこと、屋外は危険がいっぱいだから親が子供を外に出さなくなったということが、もやしのようなオトナを作る原因になっているのだと思えてならないのである。

 凧揚げは春の季語とされている。しかし東京近辺では凧は正月に付き物だったから「新年」の季語の感じがする。旧暦であれば正月は春だから、凧が春に分類されていてもちっともおかしくない。ところが、新暦(太陽暦)では正月は冬の真最中である。正月気分を凧揚げに託して詠んだりすると、頑固な宗匠に「季節違い」などと言われかねない。

 新暦が始まったのは明治6年(1872年)1月1日(旧暦の明治2年12月3日)のことだから、旧暦時代を知っている人など今や一人も残っていない。それなのに、正月に一番盛んになる凧揚げ、つまり凧という季語を未だに春のものとしているのは何故か。

 第一の理由は、俳句の季語は江戸時代の伝統を重んじて季節分けがなされているからということであろう。もう一つは、高々と空に舞い上がり、泳いだり止まったりしている凧の風情が、いかにものんびりとした春の気分に合うということから、新暦の世の中になっても「春のもの」として残されたのではないか。

 東京や大坂ではもっぱら正月から早春にかけて凧揚げが盛んに行われるが、長崎の有名な凧揚(はたあげ)は4月だし、浜松は5月、新潟県白根は6月、沖縄は10月というように、地方によって凧揚げの時期はばらばらである。これは昔からのことであるのに、凧を春としたのは、やはり春空に舞う凧の趣を多くの人が愛でたからに違いない。

 関東地方以北では「たこ」と言うが、大阪あたりは「いか」、長崎辺では「はた」と言う。しかし標準語が行き渡った昭和時代以降は全国的に「たこ」という呼び名が広まっているようである。

 凧は中国から伝えられたもので、全国的に広まったのは江戸時代中期以降らしい。はじめの頃は子供の遊びではなく、神事と結びついたりして村ごとの凧揚げ合戦など、大人が真剣に取り組む行事だったと言われる。村同士が競争で凧を上げ、互いに絡ませ合って相手の糸を切り墜落させる凧合戦なども行われた。

 やがて凧は子供の玩具ともなり、形や絵柄も多彩になった。四角、五角、六角、奴凧、行灯型と色々な形が生まれ、龍とか虎とか強そうな字を書いた字凧、富士山や鷹、武者を描いた絵凧などが人気を競うようになった。

 ともあれ大坂を中心に関西地方で始まった凧揚げが江戸に伝わり大流行、天明期(1780年代)には俳諧の素材として盛んに取り上げられるようになった。蕪村には「凧きのふの空のありどころ」という名句がある。きのうも凧が揚がっていた、きょうも空の同じところに揚がっている。太平の春だなあ、といった句意であろうか。この句あたりが「凧は春のもの」と決定づけるのに大いに働いているような気がする。

 蕪村の句の凧は「いかのぼり」と読む。関西のひと蕪村は当然、凧を「いか」と発音していたに違いない。関西で「いか」と呼ばれていたものが、江戸に伝わって大流行するうちに「たこ」に変ったのはどうしてだろう。滝沢馬琴は「俳諧歳時記栞草」の中で、紙鳶(いかのぼり)と言ったのは形が烏賊に似ていたからだろうと言い、それが江戸に来て章魚(たこ)と言うようになったのは「烏賊に対しての名也」と書いている。文化的コンプレックスの裏返しで、何かというと「贅六(ぜえろく)」などと上方をののしっていた江戸っ子が、対抗心から烏賊を章魚と言い換えたというわけであろうか。

 ただし江戸でも「いかのぼり」という言い方はあったらしく、ちゃきちゃきの江戸っ子、粋な宗匠ともてはやされた宝井其角に「葛飾や江戸をはなれぬ凧」という句がある。これは口調から言って「江戸をはなれぬイカノボリ」と読む以外にない。

 もっとも其角は芭蕉の高弟で1680年代から1700年代初頭に活躍した人だから、蕪村より7、80年古い。其角の頃は江戸でも「いかのぼり」というのが普通で、それが蕪村の天明頃になると江戸では「たこ」という呼び名が一般化し、馬琴の活躍する江戸後期には「たこ」一辺倒になったのかも知れない。

 と、自分なりに答えを出して安心したところが、蕪村の句に「雲の端に大津の凧や車山」というのがあり、蕪村の友達でもあった京都島原遊廓の住人炭太祇に「山路来てむかふ城下や凧の数」という句があることが分った。蕪村の句はもしかしたら「大津のイカや」と読むのかも知れないが、太祇の句はどうも「タコ」と読む方が自然のように感じる。これは別に確たる証拠があるわけではなく、単に私の感じに過ぎないので、もしかしたらこれも「イカ」と読むべきなのかも知れない。しかし、もしこれが「タコ」だったとしたら、島原の住人太祇がなぜそう言ったのか。関西でも当時、「いか」だけでなく「たこ」という呼び名があったのか。

 調べてみると太祇は後半生こそ京都に住みすっかり関西人になったが、四十歳頃までは江戸住まいで江戸座の句会などで活躍していたことが分った。この句は死後に編まれた「太祇句選後編」に載っているもので、いつ頃詠んだものかはっきりしない。もしかしたら江戸住まいの頃に詠んだ句なので、「たこ」なのかも知れない。島原住まいになってから詠んだ句だとすると、「関西いか・関東たこ」の歴史的変遷や方言区分をもう一度考え直さなければならない。

  凧高し鏡が浦は真ッ平   正岡子規
  萱山に凧あげて友なかりけり   大須賀乙字
  新月といふほどのもの凧のへん   阿波野青畝
  洋凧と云ふが血走る目を持てり   相生垣瓜人
  地に下りて凧に魂なかりけり   久保田九品太
  留守に来て子に凧買ってくれしかな   安住敦
  凧あがれあがれ遂げ得ぬことばかり   林翔
  凧ひとつ浮ぶ小さな村の上   飯田龍太
  凧の尾の荒縄太き闘志かな   菖蒲あや
  凧揚げて天の鼓動を掌に享くる   小田欣一

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