卒業(そつぎょう)

 嬉しくもあり、淋しさもあり、卒業というのは何とも甘酸っぱい感じがする。小学校、中学、高校、大学と、それぞれ年相応に感懐は異なるにしても、いずれも次の段階へ一歩踏み込むのだという心の昂ぶりや、希望に胸ふくらます明るさがある。それと同時に、長年親しんだ母校、先生、友人と別れることで、惜別の情がどっと湧いて来る。

 ただ、高度成長期からバブル経済の勃興と崩壊という過程をかい潜って来る間に、卒業・卒業式の重みというか、感じ方がだいぶ変ってきているように思える。

 日本中の子供達のほとんどが大学あるいは高専、短大に進むという世の中になったから、小中高校は単に上級過程に進むための階段の踊り場になってしまった。さらに、大学も今や就職に必要な資格を貰うために四年間過ごす場所に過ぎない。そういうことになれば、そこに通い、学び、教師や友人との交友を深めたという印象が、昔と比べてかなり稀薄になってしまうのはやむを得ないことだし、卒業式に厳粛な気持で臨むという気風も薄れる。

 しかし、そういう見方は別の視点からすれば、兎角昔を可しとする老人の繰り言に過ぎないとも言える。「卒業」というような一種の通過儀礼に対して抱く感じ方は、時代背景や環境によって大きく左右される。今の学生たちは今流に学校生活を楽しみ、所定年数を経て卒業ということになれば、やはりそれなりの歓びと感傷を抱くようである。今の学生たちの中にも卒業式で泣き出す娘がいるというから、昔と変わらず、卒業というものが人の心を揺すぶる力は残っているのであろう。

 インターネットの「gooランキング」というのをのぞいていたら、「卒業式と聞いて思い浮かぶ曲」という調査集計で断然一位は「仰げば尊し」で、二番目が「蛍の光」、三位に海援隊の「贈る言葉」とあった。「我が師の恩」だとか「身を立て名を挙げやよ励めよ」なんぞは時代錯誤も甚だしいと非難されて、一時はほとんど歌われなくなってしまったと聞いていたが、今どきの子供達にも人気があるようなのだ。もっともこの歌詞を正確に理解できる学生がどれほどいるのかは疑問が残るが、「いまこそわかれめ」で一呼吸置き、「いざさらば」と来る、あの辺の何とも言えない感じが、年代を問わずぐっと来るのであろう。そんなことで近ごろまた方々の学校で、「仰げば尊し」を歌うようになったという。

 昨今「教育現場の荒廃」などと騒がれてはいるものの、「卒業」に対して抱く感情は現代の若者にも十分残っているとみた方がいいようである。ただ最近の若者は卒業式もイベントの一つとして受け取っている節が見受けられる。女子大生や短大生が卒業式に判をついたように振袖に海老茶袴をはいたりするのを見るにつけそう思う。

 「卒業」が春の季語として詠まれるようになったのは大正以降のことである。明治も末年までは日本の学校年度も欧米と同じく九月が新学期で翌年八月が年度終了、そのため卒業式も六月から七月にかけて行われ、卒業はむしろ夏のものであった。

 明治末期から大正にかけて俳句、俳句評論で大活躍した大須賀乙字という人の句に「水馬ひよんひよんはねて別れけり」という句がある。これは明治37年7月、仙台の第二高等学校の卒業式で詠んだ卒業する先輩への送別句である。ミズスマシがひょんひょん跳ねて行くように、卒業生は元気よく方々に散らばって行く。将来国を背負って立つエリートとして「身を立て名を挙げやよ励めよ」と叱咤激励され、勉学に遊びに精出した旧制高等学校生らしい爽やかな名句である。7月の卒業式だからミズスマシが登場するのはごく自然なことであった。

 日露戦争に勝ちを収めて以後の日本は軍事大国の道を突っ走り、国粋主義が台頭、「日本独自」がよしとされ、学校年度も国家予算の会計年度に合わせて4月新学期となり、卒業式は3月になった。「師の恩」は絶対視され、卒業式は咳もはばかられる厳かなものとなる。やがて第2次世界大戦に突入、繰り上げ卒業などというめちゃくちゃなことがまかり通るようになり、そのまま敗戦、戦後処理の大混乱。それもなんとかかい潜って、やがて経済成長を合言葉にまっしぐらに進み、世界第2位の経済大国にのし上がった。その過程で日本人の生活様式と考え方はかなり変質してきたようである。「卒業」という季語にも、そうした時代の変遷が投影されるのも当然であろう。

  一を知って二を知らぬなり卒業す   高浜虚子
  校塔に鳩多き日や卒業す   中村草田男
  卒業す片恋少女鮮烈に   加藤楸邨
  卒業のひとり横向く写真かな   大橋桜坡子
  黒き瞳の乙女幾列卒業す   中島斌雄
  卒業の酔歌を許し眼鏡ふく   桂樟蹊子
  ががんぼの一肢が栞卒業す   齋藤慎爾
  直角に曲り卒業証書受く   真下耕月
  天井を見て卒業の歌うたふ   本井英
  卒業す以下同文の一人とし   大久保白村

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