春光(しゅんこう)

 光という字は人が頭上に火を掲げたところを表したもので、もちろん「ひかり」「ひかりかがやく」というのが第一義だが、光によって明らかになった周囲のありさま、つまり景色という意味もある。だから、「春光」というのも、春のやわらかな陽光を指すと同時に、春景色のことも言う。春の陽射しだけにとらわれず、春の景色、春の全般的な気配、様子と解釈すべき言葉である。

 言い換え季語として「春色」「春の匂ひ」「春望」「春景」「春容」などがある。総じて早春の感じがするが、春光は春景色、春望、春容などとともに、春がかなり深まった頃にも使えそうである。

 芭蕉は「奥の細道」の平泉のところで「さても義臣すぐって此の城(高館)にこもり、功名一時の叢となる。『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と、笠打敷きて、時の移るまで涙を落し侍りぬ」と書いているが、引用詩は当時から日本の文人に愛誦されていた杜甫の「春望」である。戦火によって破壊し尽くされてしまった国土にも春がめぐってきて、草が何事もなかったように青み始めている。春望すなわち春景色である。芭蕉が平泉を訪れたのは今の暦で言えば六月の半ば過ぎだから、杜甫の詩とは季節が異なるが、芭蕉はよほどこの「春望」が好きだったのだろう、承知の上でここに引用している。この詩を述べたすぐ後に、「夏草や兵どもが夢の跡」を添えている。

 「しゅんこう」と音読すると、何となく耳に硬く響くので、春まだ浅い頃の景色や気分を表すのにぴったりという感じである。うらうらとのんびりした晩春の気分を詠みたい場合には「シュンコウ」ではきつ過ぎるかもしれない。そのため、三春を通じての使われ方としては訓読みで「春の光」「春の色」と言うことも多い。

 「春光」には、今年も戻って来た春の陽光、その下に輝くのどかな景色を喜ぶ気分が底流としてある。

  春来れば路傍の石も光あり   高浜虚子
  春光や遠まなざしの矢大臣   吉岡禅寺洞
  濠の水松をうつして春の色   島田青峰
  春光や白髪ふえたる父と会ふ   日野草城
  暮れかかる雲の端に見し春の色   潁原退蔵
  春光に齢かくさず眠りけり   川端京子
  春光を片手掬ひに苔清水   高瀬哲夫
  春光やふくらみ渡る阿蘇の雲   斉子堅一郎
  春光や岩に嘴研ぐ川がらす   田中俊尾
  春光やこぼれてはづむ金平糖   龍野よし絵

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