下萌(したもえ)

 冬枯れの地面から草の芽が顔をのぞかせる様である。「草萌」「草萌ゆる」とも言う。まだまだ外気は冷たいが草はいち早く春の気配を感じ取って、萌え出る。寒さに身も心もかじかんでいた人間も、立春が過ぎるあたりから、なんとなく背筋が伸びるような気分になって来る。そういう春の感じを象徴的に表すのが「下萌」という季語である。

 『下萌や土の裂け目のものの色 炭 太祇』という繊細な句があるが、これなど早春の黒い地肌にかすかな春の色を発見した一瞬で、下萌の気分をよく写しとっている。連歌の時代から「下萌」は詠まれており、俳諧にも春が来る喜びをうたう言葉として大いに使われるようになった。

 下萌という季語を見てすぐに思いだすのは、『下萌えぬ人間それに従ひぬ』という星野立子の句である。立子は高浜虚子の次女。虚子は俳壇の本丸とも言うべき「ホトトギス」を長男の高浜年尾に継がせたが、俳人としての天稟はこの立子にありとしていたようである。昭和五年に「玉藻」という俳誌を立子のために作ってやり、創刊号には山口青邨はじめ錚々たる俳人に寄稿を仰いでいる。自らも「立子へ」という一文を毎号寄せ、戦後は後に岩波文庫で「俳句への道」という本になった俳話を実に楽しそうに書き継いでいる。よほどこの娘が可愛かったようである。その虚子が「下萌えぬ人間それに従ひぬ」について、「玉藻」誌上で次のように書いている。

 「天地の運行に従って百草は下萌をし、生い立ち、花をつけ、実を結び、枯れる。人もまた天地の運行に従って、生れ、生長し、老い、死する。……(中略)私は八十年の月日を多くの人と共に暮らして来たが、また多くの山川草木と共に暮らして来た。私は人の生活にも多少心をとめて来たが、春夏秋冬の移り変り、花の開落にも心をとめて来た。そうして人間の生滅も、花の開落と同じく宇宙の現象としてこれを眺めつつある。……(中略)大も無限であれば、小も無限である。一握の土の中にも幾億万の微生物の世界がある。いわんや眼前に展開されている禽獣虫魚の世界は偉大である。其処に常に種々の変化は嵐の如く起り、雲の如く過ぎ去ってゆく。これを諷詠する詩は偉大なる存在ではなかろうか」。

 戦後も昭和27年になって書かれた文章としては、何とも大時代で仰々しい。「写生」の重要性を唱え、「花鳥諷詠」を標榜した虚子は、理屈の勝った俳句を嫌っていたはずなのだが、最愛の娘が詠んだこの句ばかりはベタ褒めである。

 これは私の好きな句の一つではあるのだが、大上段に振りかぶったこの句評を読まされるとげんなりしてしまう。まあそれはさて措くとして、「下萌」の本意は虚子の解説で言い尽くされているようである。

 「草萌ゆる」という傍題は、下萌に比べ、若い草の芽吹く勢いをより強調しているような趣がある。じっと寒さを堪えて隠忍自重していた草が、ようやく時を得てじわっと頭をもたげるといった感じの「下萌」に対して、「草萌ゆる」には春の兆しをいち早く感じ取って精一杯伸びをするような明るい躍動感がある。

  下萌えもいまだ那須野の寒さかな   広瀬惟然
  下萌や土かく鶏の蹴爪より   三宅嘯山
  下萌の大盤石をもたげたる   高浜虚子
   祈るとは願ふにあらず下萌ゆる   京極杜藻
  下萌や君病む大事ふと忘る   殿村菟絲子
  草萌ゆる誰かに煮炊まかせたし   及川貞
  憂愁のみなもと知らず草青む   相馬遷子
  草萌や並び坐るに足らぬほど   林翔
  戒壇院石のつぎ目に草萌ゆる   岩城康徳
  一面萌ゆる野に出て仕草大きくなる   平沢美佐子

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