蜆(しじみ)

 この貝ほど大昔から日本人に親しまれて来たものは無いであろう。ハマグリやアサリや牡蠣も日本人におなじみの貝だが、海辺でなければ手に入らない。そこへゆくと蜆は北海道から沖縄まで至るところの川や湖、大きな池に棲んでいる。簡単に手に入るから蛋白源に不足しがちな庶民にとって、非常にありがたい存在であり続けた。それが今では、埋立てや護岸工事が行き渡ったことと、河川の農薬汚染などであまり採れなくなり、一合で三百円も四百円もするようになってしまった。

 日本には七種類の蜆がいるというが、主なものは利根川をはじめ東京湾に流れ込む河川や湖沼で一般的な真蜆(マシジミ)、琵琶湖や瀬田川を中心に関西地方の瀬田蜆、宍道湖など日本海側に美味なものが多い大和蜆が代表的なものである。蜆は海水が時々混じり合う河口付近(主として大和蜆)からかなり上流(真蜆)まで採れるが、いずれも小さな蜆舟を流れに乗せて、竿の先に鉄の熊手のようなものが付いた金網の籠で川底を渫うようにして採る。

 「土用蜆は腹薬」などと言われて猛暑の頃の蜆汁を珍重する向きも多いが、冬に採れる寒蜆の方が旨いという説や、いや春先が旬だと主張する人もいる。要するに年中食べているわけである。蜆が身体に良いということは、このように年中食べていたせいか、昔から庶民の間でも常識になっていたようである。天明年間(一七八一ー八九)に出た「食品国歌」という書物には「しじみよく黄疸を治し酔を解す」と書かれているという。黄疸に効き、悪酔いを癒すということは、つまり肝臓の働きを助けるというわけである。このことは最近になって医学薬学両面から立証されている。それで健康食品の店では盛んにシジミ・エキスやシジミ粉などを売り出しているが、とてものことに一合四百円の大和蜆など使えないから、もっぱら朝鮮半島や大陸からの輸入品を加工しているようだ。

 それは兎も角、蜆というものはこれで腹を一杯にしようというわけではなく、大方は味噌汁の実にするのだから一合あれば十分で、まあ当分の間は我々庶民の食卓に載り続けることであろう。筆者も人並みに酒を嗜むから、蜆の味噌汁のご厄介になること数十年。今でも一週間に一度は飲んでいる。

 しかし蜆は小さいので身をほじくるのが大変である。しかも、近ごろは折角ほじくり出した蜆が油臭かったりする。「通は蜆をせせったりしないもんだ」ということを誰かに言われ、それに栄養や薬効成分はすべて汁の方に染み出しているはずだから、いちいちせせるのは止めにしたが、どうも寂しい感じがする。

 台湾や中国大陸南部の沿岸地方では日本のよりやや大型のハナシジミというのがをり、これはアヒルの餌になっていたらしいが、人間も食べる。これを老酒に漬けたものはとても旨い。同じように日本でも蜆の佃煮があり、これもなかなかのものである。東京をはじめ関東地方では蜆は大概は汁の実にするため殻付きで売られて来たものだが、関西地方では昔は蜆のむき身も一般的だったらしい。これを饅(ぬた)にこしらえるのだという。しかし、あんな小さい貝殻をいちいちむいていたのでは、人件費倒れになるのは必定だから、今では蜆のむき身などは見られなくなっているのではないか。

 蜆飯というのもなかなか旨いものである。良い蜆が手に入ったら、十分に泥を吐かせ、水から煮て口を開けたら煮汁と蜆を分ける。煮汁は漉して適量の醤油と酒を加え、研いだ米に混ぜ、ご飯を炊く。ゆで上がった蜆の方はがさがさゆすぶると殻から身がはずれるので、とれた身の方を噴いてきたお釜にぶち込んで蒸らせば(電気釜でも蒸らしに入れば蓋を開けても大丈夫)美味しい蜆飯が出来上がる。蜆の身を入れる時に生姜の刻んだものを少し入れると香りが良くなる。茶わんによそったら上から揉み海苔と青紫蘇、冬場なら刻んだ青ネギをぱらぱらと掛ける。何杯でも食べられる気分である。季語研究とは全然関係ない話になってしまったが、まあ、このように庶民に親しまれてきた蜆ということでご勘弁いただこう。

 このように一年を通しておなじみの蜆が、どうして春の季語になったのか。俳句というのは和歌から連歌、俳諧連歌、連句、発句というつながりで生まれたものである。季語(季のことば)も、そのような歴史の中で生まれ定着した。そのため連歌・連句の中心地であった京都、畿内を標準に定められたものが多い。従って蜆も、春の瀬田蜆が一番旨いというところから、「蜆は春の季語」となったものらしい。

 昭和も三〇年代半ばまでは東京の下町に「蜆売り」というものがあった。納豆売りと共に年端のゆかない子供たちのアルバイトであった。どちらも安い食品で、庶民が買い求めた。それも今では知る人も少なくなり、死語と化している。

 蜆は和歌には全くと言っていいくらい登場しない。俳句専用の素材である。当然のことながら、そこで詠まれるものは下町の風情や庶民生活の哀歓である。


  むき蜆石山の桜ちりにけり    与謝 蕪村
  土舟や蜆こぼるる水の音     加舎 白雄
  梅多き寺島村や蜆売       正岡 子規
  ほんの少し家賃下がりぬ蜆汁   渡辺 水巴
  金の工面どうにかつけし蜆汁   三宅 応人
  蜆汁また使はれる身となりて   水沢 龍星
  くすくすと蜆が笑ふ夜の厨    内田 白女
  泥吐かす蜆の水のむらさきに   岡本 セツ
  根の国の水脈引き帰る蜆舟    佐川 広治
  蜆売ヘルン旧居をのぞきけり   土橋石楠花

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