ストローの先に石鹸水をちょっとつけて吹くと、丸いシャボン玉がふくらむ。吹きながら少しゆするようにするとシャボン玉はストローを離れて空中に浮かぶ。日の光を反射して虹色に輝きながらふわふわ飛んで、やがてぱちんとはじける。ちょっと強くせっかちに吹くと小さなシャボン玉が次々に生まれ、静かにゆっくり吹くと大きなシャボン玉ができる。子供時代誰しもが経験したシャボン玉遊びである。
シャボン玉遊びは1年中でき、ことに夏休みなどは子供達がよくやっているのを見るが、俳句ではどういうわけか春の季語になっている。春風に乗って舞い上がるのが、シャボン玉にはもっともふさわしいということからであろうか。そう言えば、シャボン玉だけではなく、風船、風車、ぶらんこ、凧など、子供の遊びの多くが春に分類されている。冬の寒さの中に閉じこめられていた子供達が、陽気がよくなって一斉に外に飛びだす。それがいかにも春の喜びを表わしているように見えるので、こういうものが「春」のものとされたのであろうか。これもまた日本人の「旬」という物の考え方の一つかも知れない。
何とも頼りないものだが、これが日の光をうけて虹色に光ながらただよう様は実に美しい。春ののどかさをしみじみ感じさせてくれる。子供と一緒になって吹いていると、知らず知らず童心に帰り、憂き世のしがらみもふっと忘れてしまう。こんなところがシャボン玉遊びの効用であり、シャボン玉という季語の本意であろう。
しゃぼん玉遊びは日本古来のものではない。安土桃山時代、ポルトガル人が石鹸と一緒に持ち込んだものである。石鹸という文字はかなり後にくっつけられたもののようで、当時はポルトガル語のSabãoをちょっと訛って「しゃぼん」と呼んでいた。江戸初期の幕府儒官林羅山が作った「多識編」という今で言う事典にも「志也保牟」として載っているというから、江戸時代の人たちは誰も「セッケン」などとは言わず、「シャボン」と言っていたのだろう。
このシャボンを溶かした水に麦わらをちょっと浸してぷっと吹くと七色の泡が次々に生れる。江戸っ子は大人も子供も大喜びでこれに打ち興じたらしく、江戸幕府が落着いた1600年代後半には町中に「玉屋」という看板をぶら下げた行商のシャボン玉売りが現れた。もっとも当時は石鹸は貴重品で下々の手に入るものではなかったから、ムクロジの実の皮をすり潰し水に溶かし、それに松脂で粘着力を増したシャボン玉液を売っていたらしい。
近ごろのシャボン玉は石油化学製品を混ぜたりして、ちょっとやそっとでは壊れないものが出来ている。フラフープのような大きなワクに液体をつけて膨らませ、その中に人間が入ってしまう大道芸もあれば、イベント会場などでは一日中シャボン玉を吐き出し続けるシャボン玉発生装置を据え付けるところもあるという。
商売っ気にまみれたなどと目くじら立てることもあるまい。それもご愛嬌。とにかく壊れて消えてしまうところがあっさりしている。ここに「はかなさ」「あっけなさ」を感じる俳人もいる。
姉ゐねばおとなしき子やしゃぼん玉 杉田久女
石鹸玉格子もぬけず消えにけり 増田龍雨
流れつつ色を変へけり石鹸玉 松本たかし
しゃぼん玉底にも小さき太陽持つ 篠原梵
しゃぼん玉独りが好きな子なりけり 成瀬桜桃子
戦前へたどる記憶のシャボン玉 高橋沐石
シャボン玉父と子の眉一文字 加藤知世子
シャボン玉いくさあるなとわれも吹く 須田佐多夫
見えぬ壁ありてぶつかるしゃぼん玉 野瀬潤子
溜息をかく美しくしゃぼん玉 檜紀代