魚偏に春と書く、文字通り春を告げる魚である。しかしこの名前は昔、文化・政治の中心が京都にあった頃、春になると産卵のため瀬戸内海に集まって来るサワラが京都大坂に運ばれ、絶品とされたところから付けられたものである。東北・北海道の人に言わせれば「春告魚」はニシンに決まっているのだが、やはり歴史の重みの然らしむるところは如何ともし難く、「春の魚」はサワラに取られた。
関東地方でも昔から相模湾などで盛んに獲れていたのだが、これは時期がずれて秋も深まってから冬にかけてのものが脂がのって美味しい。この場合は「寒鰆」として別立ての季語になっている。
鰆はサバ科の魚で体長1メートルにもなる大きな魚である。マグロやサバなど同じ仲間の魚と違って、細長く縦に平べったいスマートな体型をしている。鰆という字は後から拵えたもののようで、元々サワラとは「狭腹」から来たのだとも言われている。体長5、60センチの小型のサワラをサゴシ(サゴチ)と言うが、これも「狭腰」ということで、その優雅な魚体からつけられた名前である。
こうした名前から連想すると、サワラはいかにもやさしそうだが、実は獰猛で、鰯や小さなサバを丸呑みしてしまうという。青黒い背中に紫褐色の斑点があり、腹部は銀白色に輝いている。マグロの赤味に対してこちらは白身である。脂肪分がかなり多く、白身魚にしては味わいが濃い。
身が柔らかいので崩れやすく長距離輸送には適さなかったのであろう、瀬戸内海でとれた鰆はせいぜい大坂京都止まりということになり、また駿河湾、相模湾のものも江戸にまで運ばれることが稀ということになって、関東近辺ではあまり馴染みがなく、もっぱら関西人の好む魚となった。しかし冷蔵冷凍技術が進歩した昨今は東京近辺でも旨いサワラが食べられるようになってフアンが増えている。
鰆は取れたてのものは刺し身も旨いが、塩焼きにしてもいい。しかしなんと言っても絶品は西京味噌に漬けた味噌漬けである。これは鰆の切り身をまず塩で締め、しばらくして塩を洗い流して水分を拭き取って西京味噌に一日二日漬込む。こうすると柔らかな身が適度に締まると同時に、味噌味が染み込み、淡白でありながらなんとなく脂っこさも感じる複雑な鰆の味わいが100パーセント生かされる。高速道路などがなかった昔、瀬戸内から京都まではかなりの道のりだから、鮮度が落ちるのを防ぐ意味合いもあって、こうした調理法が考え出されたのだろうが、これが鰆の持ち味を十二分に引き出す効果をもたらした。
鰆の鮨も実に旨い。これは岡山をはじめ瀬戸内沿岸の各所にあるが、塩と酢で締められた半透明の白身がうっすらと照り、見た目も美しい。口にすると白身魚の上品な舌触りの中に、とろりとした味わいがある。
もう30数年も前、宇高連絡船で四国に渡る際に岡山で食べて、こんな旨い物はないと感嘆した。昨年、また四国に行く機会があって、岡山で鰆寿司の折を求め、瀬戸大橋を渡る車の中で食べた。美味しいことはおいしかったが、30数年前の感激は甦って来なかった。寄る年波で舌が鈍磨したせいであろうか。あるいは、あっと言う間もなく四国に着いてしまう、せわしない車旅のせいであろうか。食味食感というものは、食べる時と場所の雰囲気によってかなり変って来る。
東京近辺のデパートやスーパーで売っている鰆の切り身は、本場瀬戸内のものもあるだろうし、駿河湾や相模湾のものもあるが、太平洋の沖合で獲れた沖サワラもあろう。保存状態もさまざまだろう。素人目にはその良し悪しはなかなか分らないが、切り身の中央部の皮の近くにある三角の赤黒い部分、つまり血合いの部分と白身の部分がくっきりしているのを選ぶといい。
塩焼きもいいが、照焼きがおすすめだ。まず小ナベに醤油1に対して酒と味醂を各0.1くらい(これは好みに応じて加減する)入れて煮立たせ、少し煮詰めてタレを作っておく。今どき七輪を使う家はそうそうないから、ガス火で良いとして、コンロの上に鉄枠を置いて焼き網を乗せ「強火の遠火」状態にして(枠がなければ直接コンロに網を載せてとろ火にする)サワラの切り身を炙りながら、タレをつけて焼く。実に滋味のある照焼で、これに大根おろしと酢漬けの生姜でも添えれば言うこと無しである。不思議なことに辛口の酒にも甘口にも合う。
バタ焼きもなかなかいける。フライパンにバタを溶かし、少量のサラダ油を入れる。本当はバタだけでいいのだが、バタばかり大量に用いると身体に悪いと言う山の神の仰せに従った折衷案に過ぎない。不承不承サラダ油を入れることにしたが、そうすると軽く仕上がるという効果のあることが分った。
油が熱くなったなというところに薄く塩胡椒したサワラの切り身を入れる。バタは焦げやすいから火加減に注意しながら、片面がちょっときつね色になりかかったらひっくり返し、オチョコ1、2杯の白ワインを浴びせる、油とワインがわっと跳び散るからすかさず鍋蓋をかぶせて1、2分。あらかじめ作っておいた粉吹芋やブロッコリーの茹でたのを付け合わせに皿に盛り、ナベに残った焼き汁に醤油をひと垂らし、あればレモン汁をしぼりかけてソースの出来上がり。これはキュンと冷したシャブリか純米吟醸酒にうってつけである。
昔は春になって海面近くに群れ集まって来るサワラを獲る漁船が多数出て、それが瀬戸内の風物詩となっていたようである。俳句にもそうした鰆舟や鰆漁を詠んだ作品が多く見られる。しかし今どきの我々にとっては、そんな景色はなかなか望めない。切り身を買って来て料理し、食べながら「春を呼ぶ魚」の思いを掻き立てて句作するより他あるまい。