立春(りっしゅん)

 二十四節気の一つで、この日から春とされている。天文学的に言えば、太陽が黄経三百十五度を通過する時点である。立春の前日が「節分」で、昔は節分の夜が年越であった。

 太陽暦の現代では立春はおおむね2月4日頃になる。まだ寒い、と言うより立春の頃がいちばん寒いことが多いのだが、「もうこれ以上は寒くならない」つまり「これからだんだん暖かくなる」というわけで、『春立つ』としたわけであろう。これは古代中国人のものの考え方で、「満つれば欠くる、欠くれば満つる」という言い方にもつながる思想である。暦が日本に伝わると同時に、こうした思想も伝えられ、根をおろした。

 立春のことを昔は「今朝の春」「今日の春」などと言った。旧暦(太陰太陽暦)の暦法では、「冬至」を11月の半ばに置くことになっており、その約45日後が立春だから、おおむね1月1日になる。そこで、新しい年の始めが同時に春の始まりともなり、「今朝の春」が立春および新年を表わす言葉として定着した。しかし、今日では元旦と立春は一ヶ月以上も離れてしまっているから、「今朝の春」は立春には使わず、もっぱら「お正月」を指す季語として用いられている。

 古今集の巻頭を飾る有名な歌に『年の内に春は来にけりこの春を去年とやいはむ今年とやいはむ』(在原元方)がある。これは旧暦が抱えていた矛盾を突いたウイットの歌である。旧暦は、新月から満月になりまた新月に戻るまでの朔望月(約29.5日)を12倍したものを1年とし、大の月(30日)と小の月(29日)を組み合わせて12ヶ月を定めた。その各月の最初と真ん中あたりに、太陽の運行によって生ずる季節変化をほぼ15日ずつに分けて名前を付けた「二十四節気」をあてはめた。これによって種まきの時期や収穫時季、生活の目安をつけたわけである。

 ところが、こうした月の満ち欠けを基準とした旧暦では1年が354日あるいは355日しか無いから、太陽の運行による1年より10日ないし11日も短い。そのまま放っておけば18年ほどで正月が真夏になったりする。今日でも使われ続けているイスラム暦がそれである。これでは全く不便極まりないから、19年間に7回、つまり2年か3年に一度「閏月」を置いて1年13ヶ月の年をこしらえて季節のずれを調整した。これが太陰太陽暦である。

 しかし、冬至を11月に置くことが決まりだったから、閏月のある年は11月初旬に冬至が来る場合がある。そういう年は12月中に立春が来てしまう。在原元方は「十二月だというのにもう立春が来てしまった、立春すなわち新玉の年が明けたのだから、さてこれを去年と呼ぶべきか、今年と言うべきか」としゃれのめしたわけである。

 とにかく太陰太陽暦は分かりにくく、大小の月や閏月がどこに挟まるのか、一般庶民にはわけが分らない。そのため、年末になると各種各様の暦が売られ、絵暦なども人気を呼んだ。

 明治5年11月9日、太政官から突如として改暦の詔書が公布された。

 「朕惟フニ我邦通行ノ暦タル太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ太陽ノ躔度ニ合ス、故ニ二三年間必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス。置閏ノ前後時ニ季候ノ早晩アリ終ニ推歩ノ差ヲ生スルニ至ル。…蓋シ太陽暦ハ太陽の躔度ニ従ヒテ月ヲ立ツ。日子多少ノ異アリト雖モ、季候早晩ノ変ナク、四歳毎ニ一日ノ閏ヲ置キ、七千年ノ後僅ニ一日差ヲ生スルニ過キス。之ヲ太陰暦ニ比スレハ最モ精密ニシテ其便不便モ固ヨリ論ヲ俟タサルナリ。依テ自今旧暦ヲ廃シ太陽暦ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行セシメン。百官有司其レ斯旨ヲ体セヨ」

 「朕惟フニ我邦通行ノ暦タル太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ太陽ノ躔度ニ合ス、故ニ二三年間必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス。置閏ノ前後時ニ季候ノ早晩アリ終ニ推歩ノ差ヲ生スルニ至ル。…蓋シ太陽暦ハ太陽の躔度ニ従ヒテ月ヲ立ツ。日子多少ノ異アリト雖モ、季候早晩ノ変ナク、四歳毎ニ一日ノ閏ヲ置キ、七千年ノ後僅ニ一日差ヲ生スルニ過キス。之ヲ太陰暦ニ比スレハ最モ精密ニシテ其便不便モ固ヨリ論ヲ俟タサルナリ。依テ自今旧暦ヲ廃シ太陽暦ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行セシメン。百官有司其レ斯旨ヲ体セヨ」

 つまり、これまで使用してきた暦は、1年を太陰(月)の朔望(新月と満月)によって12ヶ月に分け、これを太陽の躔度(天空における位置)に合わせる暦法によるものであったが、これでは2、3年に一度は閏月を置かねばならず、閏月の前後は気候の遅速が生じてしまう。これに対して、太陽暦は太陽の天空上の位置によって月を定めるので、年によって日にちは多少の差が出るものの、気候がずれてしまうようなことはない。4年に1日の閏日を置くだけで、7000年に1日の誤差を生ずるだけである。太陰暦に比べれば、その精密度は比較にならず、その便不便は言うまでもなかろう。だから、今回、旧暦を止めて太陽暦を採用し、永久にこれを守ることにした。皆々これに従うように、という噛んで含めるような詔書である。

 ところが、これに基づいて太政官が出した「達」という指示書を見て、百官有司ばかりでなく全国民が驚いた。「来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」というのである。さらに改暦と同時に、これまで一日を十二刻で区切っていた時刻を二十四時間制とし、「子ノ刻ヨリ午ノ刻迄ヲ十二時ニ分チ午前幾時ト称シ、午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ午後幾時ト称候事」と時間まで変えてしまった。

 今日のように国会で延々と議論するという時代ではない。国民生活を根底から変えてしまう有史以来の大変革を、上からの「詔書」という形でいきなり発表し、1ヶ月足らずで実行に移すというのである。しかも明治5年12月3日が6年1月1日というのだから、12月がすっ飛んでしまう。当時の日本の商慣習では半年、1年決済が普通で、特に12月は総決算月である。借金取りがひと月早く走り回るなど大騒ぎになったようだが、新暦は早くも2年後にはほぼ定着した。旧幕以来、お上の言うことには従順に従うという気風が一般国民に染みついていたためであろうか。また、閏月などという厄介なものが無くなり、大小の月も「にしむくさむらい」と毎年固定されて誰にでも分る新暦の便利さに気づいたこともあったせいでもあろう。

 しかし、明治新政府は何故こんなに性急に改暦を行ったのか。確かに幕末以降、欧米列強と付き合うようになって、有識者の間では改暦と時刻改正の必要性が叫ばれていた。しかし明治5年の改暦断行にはもう一つ別の理由があったとも言われている。国の財政破綻を救うための窮余の一策だったというのだ。

 当時、新政府はほとんど財政破綻状態で、官吏の俸給も払えない事態に陥っていた。旧幕時代は幕府も諸藩も家臣への俸給は年俸制(扶持米を半期ごとに支給)だったが、明治政府は欧米先進国に習って明治4年に月給制に切り替えた。月給制に変えたはいいが、国庫はまさに空っぽ。しかも閏月のある年には13ヶ月分の月給を支払わねばならぬことに気がついた。ちょうど明治6年は閏月のある年に当っていた。

 ここで新暦に変えてしまえば、翌年も12ヶ月ですっきりすると、岩倉具視ら遣米欧使節団が出掛けた後の留守を預かっていた参議大隈重信が決断した。「文明開化を進展せしめ、欧米諸国に比肩せんと欲すれば改暦せざるべからず」と、強引に踏み切った。ついでに、明治5年12月はわずか2日しかないのだから「12月の月給は無し」と決めた。

 とにかく改暦の方はなんとなく国民全体に受入れられたが、俳句の世界にとっては今日に至るまでいろいろ尾を引く問題を残した。最大の問題が季語の季節分類である。たとえば「立春」が春の部に分類されるのは当然だが、本来は立春とイコールである元旦を表わす「今朝の春」「今日の春」をどうするかが問題になる。今では元旦は冬の真最中である。正月行事も昔はすべて「春の部」のトップに据えて何の問題もなかったが、今日では季節的に違和感がある。そこでやむを得ず、「新年の部」をこしらえて、そこに収容することになった。

 「五月晴(さつきばれ)」はもちろん旧暦5月のことであり、現在の暦に直せば6月中下旬頃の梅雨の最中の晴を喜ぶ季語である。しかしこれが新暦5月、すなわち初夏の晴天を指すものと勘違いする人が少なくない。「さくらさくら弥生の空は」の弥生は三月の別称であり、これら月の別称も季語だから、その分類にも困る。こうした混乱が至る所に現れるようになった。

 現代の俳句歳時記では、季語の再編成が試みられ、季節・月の移動が行われたりしている。しかしその一方で、江戸時代の古句も例句として並べざるを得ず、それとの整合性をはかる上でさらなる混乱が生れてしまう。どうもうまくいかない。

 農作業の目安となっていた二十四節気は新暦になっても生き残り、現在のカレンダーにも注記されている。立春、立夏、大暑、立秋、立冬、冬至、大寒といった節気は新暦では毎年ほぼ同じ月日に巡って来るので分かりやすい。最も大きな影響を受けたのは「祭事」の時期だが、これも今日では田舎のお盆行事が月遅れで行われる他は、新年行事をはじめほとんどが新暦に従うようになっている。ただ、七夕などは新暦の7月7日では梅雨の最中で星を仰ぎ見るのは絶望的である。仲秋の名月も本来は旧暦8月15日だから夜気に肌寒さを感じる頃だが、新暦では浴衣姿で暑い暑いと言っている。こんなところが、同じ季語を詠んだ句でも、江戸時代の句と現代俳句では雰囲気がかなり変わってしまう。古句を鑑賞する際にはそんなことも念頭に置くことが必要だろう。

 立春という季語には、何よりも「さあ春だぞ」という待ちに待った気分がある。まだ寒さは厳しいけれど、常に人より一歩先に季節の移ろいを感じ取る、俳人のそうした心意気を鼓舞するような感じがこめられた季語である。「春立つ」「春来る」とも詠む。

  春立つや誰も人より早く起き   上島鬼貫
  寝ごころやいづちともなく春は来ぬ   与謝蕪村
  春立つや愚の上に又愚にかへる   小林一茶
  立春の暁の鐘鳴りにけり   前田普羅
  立春の米こぼれをり葛西橋   石田波郷
  春立つや山びこなごむ峡つづき   飯田蛇笏
  立春の庭に捨てられ鬼の面   原コウ子
  立春のぶつかり合ひて水急ぐ   会田保
  立春の臍の上向き加減かな   栗原利代子
  白菜がまじめに笑って立春です   稲田豊子

立春(りっしゅん)

 二十四節気の一つで、この日から春とされている。天文学的

に言えば、太陽が黄経三百十五度を通過する時点である。立春

の前日が「節分」で、昔は節分の夜が年越であった。

 太陽暦の現代では立春はおおむね2月4日頃になる。まだ寒い、

と言うより立春の頃がいちばん寒いことが多いのだが、「もう

これ以上は寒くならない」つまり「これからだんだん暖かくな

る」というわけで、『春立つ』としたわけであろう。これは古

代中国人のものの考え方で、「満つれば欠くる、欠くれば満つ

る」という言い方にもつながる思想である。暦が日本に伝わる

と同時に、こうした思想も伝えられ、根をおろした。

 立春のことを昔は「今朝の春」「今日の春」などと言った。

旧暦(太陰太陽暦)の暦法では、「冬至」を11月の半ばに置く

ことになっており、その約45日後が立春だから、おおむね1月1

日になる。そこで、新しい年の始めが同時に春の始まりともな

り、「今朝の春」が立春および新年を表わす言葉として定着し

た。しかし、今日では元旦と立春は一ヶ月以上も離れてしまっ

ているから、「今朝の春」は立春には使わず、もっぱら「お正

月」を指す季語として用いられている。

 古今集の巻頭を飾る有名な歌に『年の内に春は来にけりこの

春を去年とやいはむ今年とやいはむ』(在原元方)がある。こ

れは旧暦が抱えていた矛盾を突いたウイットの歌である。旧暦

1

は、新月から満月になりまた新月に戻るまでの朔望月(約29.5

日)を12倍したものを1年とし、大の月(30日)と小の月(29日)

を組み合わせて12ヶ月を定めた。その各月の最初と真ん中あた

りに、太陽の運行によって生ずる季節変化をほぼ15日ずつに分

けて名前を付けた「二十四節気」をあてはめた。これによって

種まきの時期や収穫時季、生活の目安をつけたわけである。

 ところが、こうした月の満ち欠けを基準とした旧暦では1年が

354日あるいは355日しか無いから、太陽の運行による1年より1

0日ないし11日も短い。そのまま放っておけば18年ほどで正月が

真夏になったりする。今日でも使われ続けているイスラム暦が

それである。これでは全く不便極まりないから、19年間に7回、

つまり2年か3年に一度「閏月」を置いて1年13ヶ月の年をこしら

えて季節のずれを調整した。これが太陰太陽暦である。

 しかし、冬至を11月に置くことが決まりだったから、閏月の

ある年は11月初旬に冬至が来る場合がある。そういう年は12月

中に立春が来てしまう。在原元方は「十二月だというのにもう

立春が来てしまった、立春すなわち新玉の年が明けたのだから、

さてこれを去年と呼ぶべきか、今年と言うべきか」としゃれの

めしたわけである。

 とにかく太陰太陽暦は分かりにくく、大小の月や閏月がどこ

に挟まるのか、一般庶民にはわけが分らない。そのため、年末

になると各種各様の暦が売られ、絵暦なども人気を呼んだ。

 明治5年11月9日、太政官から突如として改暦の詔書が公布さ

れた。

2

 「朕惟フニ我邦通行ノ暦タル太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ太陽

ノ躔度ニ合ス、故ニ二三年間必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス。置閏

ノ前後時ニ季候ノ早晩アリ終ニ推歩ノ差ヲ生スルニ至ル。…蓋

シ太陽暦ハ太陽の躔度ニ従ヒテ月ヲ立ツ。日子多少ノ異アリト

雖モ、季候早晩ノ変ナク、四歳毎ニ一日ノ閏ヲ置キ、七千年ノ

後僅ニ一日差ヲ生スルニ過キス。之ヲ太陰暦ニ比スレハ最モ精

密ニシテ其便不便モ固ヨリ論ヲ俟タサルナリ。依テ自今旧暦ヲ

廃シ太陽暦ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行セシメン。百官有司其レ斯

旨ヲ体セヨ」

 つまり、これまで使用してきた暦は、1年を太陰(月)の朔望

(新月と満月)によって12ヶ月に分け、これを太陽の躔度(天

空における位置)に合わせる暦法によるものであったが、これ

では2、3年に一度は閏月を置かねばならず、閏月の前後は気候

の遅速が生じてしまう。これに対して、太陽暦は太陽の天空上

の位置によって月を定めるので、年によって日にちは多少の差

が出るものの、気候がずれてしまうようなことはない。4年に1

日の閏日を置くだけで、7000年に1日の誤差を生ずるだけである。

太陰暦に比べれば、その精密度は比較にならず、その便不便は

言うまでもなかろう。だから、今回、旧暦を止めて太陽暦を採

用し、永久にこれを守ることにした。皆々これに従うように、

という噛んで含めるような詔書である。

 ところが、これに基づいて太政官が出した「達」という指示

書を見て、百官有司ばかりでなく全国民が驚いた。「来ル十二

月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」というのである。

3

さらに改暦と同時に、これまで一日を十二刻で区切っていた時

刻を二十四時間制とし、「子ノ刻ヨリ午ノ刻迄ヲ十二時ニ分チ

午前幾時ト称シ、午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ午後幾時ト称

候事」と時間まで変えてしまった。

 今日のように国会で延々と議論するという時代ではない。国

民生活を根底から変えてしまう有史以来の大変革を、上からの

「詔書」という形でいきなり発表し、1ヶ月足らずで実行に移す

というのである。しかも明治5年12月3日が6年1月1日というのだ

から、12月がすっ飛んでしまう。当時の日本の商慣習では半年、

1年決済が普通で、特に12月は総決算月である。借金取りがひと

月早く走り回るなど大騒ぎになったようだが、新暦は早くも2年

後にはほぼ定着した。旧幕以来、お上の言うことには従順に従

うという気風が一般国民に染みついていたためであろうか。ま

た、閏月などという厄介なものが無くなり、大小の月も「にし

むくさむらい」と毎年固定されて誰にでも分る新暦の便利さに

気づいたこともあったせいでもあろう。

 しかし、明治新政府は何故こんなに性急に改暦を行ったのか。

確かに幕末以降、欧米列強と付き合うようになって、有識者の

間では改暦と時刻改正の必要性が叫ばれていた。しかし明治5年

の改暦断行にはもう一つ別の理由があったとも言われている。

国の財政破綻を救うための窮余の一策だったというのだ。

 当時、新政府はほとんど財政破綻状態で、官吏の俸給も払え

ない事態に陥っていた。旧幕時代は幕府も諸藩も家臣への俸給

は年俸制(扶持米を半期ごとに支給)だったが、明治政府は欧

4

米先進国に習って明治4年に月給制に切り替えた。月給制に変え

たはいいが、国庫はまさに空っぽ。しかも閏月のある年には13

ヶ月分の月給を支払わねばならぬことに気がついた。ちょうど

明治6年は閏月のある年に当っていた。

 ここで新暦に変えてしまえば、翌年も12ヶ月ですっきりする

と、岩倉具視ら遣米欧使節団が出掛けた後の留守を預かってい

た参議大隈重信が決断した。「文明開化を進展せしめ、欧米諸

国に比肩せんと欲すれば改暦せざるべからず」と、強引に踏み

切った。ついでに、明治5年12月はわずか2日しかないのだから

「12月の月給は無し」と決めた。

 とにかく改暦の方はなんとなく国民全体に受入れられたが、

俳句の世界にとっては今日に至るまでいろいろ尾を引く問題を

残した。最大の問題が季語の季節分類である。たとえば「立春」

が春の部に分類されるのは当然だが、本来は立春とイコールで

ある元旦を表わす「今朝の春」「今日の春」をどうするかが問

題になる。今では元旦は冬の真最中である。正月行事も昔はす

べて「春の部」のトップに据えて何の問題もなかったが、今日

では季節的に違和感がある。そこでやむを得ず、「新年の部」

をこしらえて、そこに収容することになった。

 「五月晴(さつきばれ)」はもちろん旧暦5月のことであり、

現在の暦に直せば6月中下旬頃の梅雨の最中の晴を喜ぶ季語であ

る。しかしこれが新暦5月、すなわち初夏の晴天を指すものと勘

違いする人が少なくない。「さくらさくら弥生の空は」の弥生

は三月の別称であり、これら月の別称も季語だから、その分類

5

にも困る。こうした混乱が至る所に現れるようになった。

 農作業の目安となっていた二十四節気は新暦になっても生き

残り、現在のカレンダーにも注記されている。立春、立夏、大

暑、立秋、立冬、冬至、大寒といった節気は新暦では毎年ほぼ

同じ月日に巡って来るので分かりやすい。最も大きな影響を受

けたのは「祭事」の時期だが、これも今日では田舎のお盆行事

が月遅れで行われる他は、新年行事をはじめほとんどが新暦に

従うようになっている。ただ、七夕などは新暦の7月7日では梅

雨の最中で星を仰ぎ見るのは絶望的である。仲秋の名月も本来

は旧暦8月15日だから夜気に肌寒さを感じる頃だが、新暦では浴

衣姿で暑い暑いと言っている。こんなところが、同じ季語を詠

んだ句でも、江戸時代の句と現代俳句では雰囲気がかなり変わ

ってしまう。古句を鑑賞する際にはそんなことも念頭に置くこ

とが必要だろう。

 立春という季語には、何よりも「さあ春だぞ」という待ちに

待った気分がある。まだ寒さは厳しいけれど、常に人より一歩

先に季節の移ろいを感じ取る、俳人のそうした心意気を鼓舞す

るような感じがこめられた季語である。「春立つ」「春来る」

とも詠む。

  春立つや誰も人より早く起き   上島鬼貫

  寝ごころやいづちともなく春は来ぬ   与謝蕪村

  春立つや愚の上に又愚にかへる   小林一茶

  立春の暁の鐘鳴りにけり   前田普羅

  立春の米こぼれをり葛西橋   石田波郷

6

  春立つや山びこなごむ峡つづき   飯田蛇笏

  立春の庭に捨てられ鬼の面   原コウ子

  立春のぶつかり合ひて水急ぐ   会田保

  立春の臍の上向き加減かな   栗原利代子

  白菜がまじめに笑って立春です   稲田豊子

7
    
閉じる