二月(にがつ)

 二月三日が節分、翌四日が立春で、いよいよ春ということになるが、まだまだ寒い。東京近辺では寒さを押して観梅などとしゃれ込むが、天気図はまだ冬の気圧配置が優勢で、風も厳しい。時には東日本にも大雪が降ったりする。北陸から東北、北海道ともなれば依然真冬であり、豪雪に閉じ込められている。

 とは言え、関東から以南では寒いことは寒いが、なんとなく春の到来が感じられる。野原にはハコベが萌え出しオオイヌノフグリが可愛らしい青い花をつけ始め、岸辺にはネコヤナギが銀色の蕾を陽光に光らせ、小薮には鶯がやって来る。下旬になればヒバリも鳴き始める。小田原や水戸などでは梅祭が行われ、気分としてはすっかり春である。ふと、だいぶ日が永くなったことにも気づく。

 しかし、二月という月はどうも印象がいまいちという感じである。これといったこともせずに、あっという間に過ぎてしまう。一月から十二月まで、月の名前はすべて季語になっているのだが、二月は十一月と並んで印象が薄い月のように思う。これは正月と三月に挟まれているせいであろう。正月は日本人にとって一番大切な「年の初め」、三月は四月の年度始めを控えての人事異動や入学準備などで何かと話題豊富な月である。これに対して二月は豆まきや立春、建国記念日などがあるが、「紀元節」と言った昔はいざ知らず、あまりぱっとしたものがない。それに二十八日でひと月が終わってしまうのもなんとなくせかされているような感じである。そんなこともあって、印象が薄くなるのではなかろうか。

 さりながら俳句を志す者にとっては、二月はなかなか味のある月なのである。俳人という人種は誰よりも季節の変化に鋭敏でなければならない。とすれば、「立春」をなおざりにすることは出来ない。肌を刺す冷たい風の中に春の匂いを嗅ぎ取り、草の芽に新生の息吹を感じるのだ。まあ痩せ我慢と言うべきか、粋がりと言うべきか、傍から見れば滑稽極まりない図柄であろうが、そこに面白味を感じるところに俳句の醍醐味がある。そういう微妙な季節の変化が現れるのが二月なのである。

 「二月」という季語は「早春」「春浅し」とほとんど同じ意味合いを持っている。ただし「早春」や「春浅し」が叙情味を帯びているのに対して、「二月」と言った場合には、より客観的に即物的に春の始めという時季を指し示す。「春浅し」の柔らかさに対して、「二月」は硬質な感じを与える。きっぱりとした感じを押し出すに適した季語である。春になったとはいえ、まだ厳しい寒さを残している周囲の様子を、客観的に描写した句がよく見受けられるのもその表れであろう。

 時々「二月」と言わずに「如月(きさらぎ)」と、旧暦二月の別名を用いる人がいるが、これはとんでもない間違いで、如月は今で言えば三月であり、仲春のことだから、季感は全く異なる。


  木の間出る人に二月の光かな     高浜 虚子
  面体をつつめど二月役者かな     前田 普羅
  母思ふ二月の空に頬杖し       長谷川かな女
  うすじろくのべたる小田の二月雪   松村 蒼石
  波を追ふ波いそがしき二月かな    久保田万太郎
  累々と橙落つる二月かな       野村 喜舟
  竹林の月の奥より二月来る      飯田 龍太
  風二月顔よごれきる塞の神      原   裕
  潮満つるごとくに二月訃多し     轡田  進
  枯れ伏せるもののひかりの二月かな  遠藤 悠紀

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