アブラナ科の二年草アブラナ(油菜)の花で、三月から四月にかけて鮮やかな黄色い花を咲かせる。花が散ったあとに細長い鞘をつけ、その中に黒い真ん丸の小さな種が実る。これを絞ったのが菜種油で江戸時代から明治には灯火用として行灯などに使われた。精製したものが白絞油(しらしめゆ)で食用油になる。搾り取った油粕は素晴しい肥料になり、今でも園芸愛好家にはおなじみである。
大根、小松菜、蕪、白菜、水菜、キャベツなどもみなアブラナ科の蔬菜であり、育つにまかせておけばやがて同じような十字形の花を咲かせ、小粒の種が入った鞘をつける。ただ、油が一番たくさん採れる品種として改良されたのが油菜であり、これが江戸時代、全国各地で盛んに栽培されるようになった。見渡す限り黄色い花が一斉に咲くアブラナ畑は人々に強い印象を与え、「菜の花」と呼ばれて親しまれるようになった。
江戸中期になると京阪神一帯で菜種油の生産が増加し、そのため関西地方の農村地帯で特に盛んに油菜が栽培されるようになった。与謝蕪村にはあまねく有名な「菜の花や月は東に日は西に」がある。蕪村の生まれ故郷毛馬は今でこそ大阪市都島区毛馬町で都心部になっているが、往時は淀川の氾濫原が元になった平坦な農村部で、蕪村の頃には菜の花畑が一面に広がっていたに違いない。
今日でも油を採取するための油菜は青森県を筆頭に各地でかなり栽培されている。しかし、食用油としては菜種油よりもっと軽いものが好まれるようになってきたため需要が減退、耕作面積はぐんと狭まった。肥料としての油粕も即効性のある化学肥料に押しまくられた。ましてや灯火用としての需要は皆無である。こうした事情で実用としての菜の花畑の面積はかなり狭められたが、それに代って観光用「菜の花畑」が各地に出現するようになった。
房総半島や伊豆半島は東京に比べると温暖だから、二月には菜の花が満開になる。「梅見」を終えた首都圏の風流人たちは、本番の桜の「花見」を待つ間に、どこかに何かきれいな花がないものかと探す。そういう人たちを引きつけようと、このあたり一帯には観光用菜の花畑が続々と生れた。菜の花ばかりでなく、春の花なら何でもござるとばかりに和花洋花おかまいなく咲かせて「摘み放題千円」などと看板を掲げた農園もある。東京からの日帰り観光バスが横付けし、元気のいいおばさんたちが花畑にわっと飛び込んで無我夢中でちょきちょき切りまくっている。とてものことに「月は東に日は西に」の句を味わえる空気ではない。
観光菜の花畑の喧噪は別として、とにかく菜の花畑は美しい。萌える緑に黄色い花が際立ち、あたりがぱっと明るくなったような感じである。晴れの日なら、燦々と春の陽射しを浴びて、一層輝きを増す。曇りならぼうっと霞んださまが独特の風情を感じさせる。雨の日もまた捨て難い雰囲気がある。そんなところから菜の花は江戸時代から今日に至るまで、非常に人気のある句材として取り上げられている。
最近、菜の花は見るだけでなく、食べ物としての人気も高まっている。菜の花がまだ蕾のうちに摘み取ってお浸しや辛子和えにするととても美味しい。何よりもその彩りが美しい。熱湯をくぐって鮮やかな緑の際立つ葉や蕾の中に二、三輪黄色い花がのぞいている風情は、まさに「春を食す」感じがする。旨さと美しさが喜ばれて、春の食材として大いに売れ出した。菜種油を作るよりは、菜の花そのものがいい値段で売れるとなれば、栽培単位面積当りの収入は格段に高まる。それで生産者はもっぱら菜花作りに精を出すようになり、温室やビニールハウスで育て、冬の内から競争で出荷するほどになった。
やはり春の季語で「諸葛菜(しょかつさい)」という花がある。三月から五月にかけて庭先や河原などに、形は菜の花によく似た紫色の花を咲かせ、ムラサキハナナとも呼ばれる。江戸時代に中国から輸入され、観賞用に育てられていたものが野生化して各地に広がった。これもアブラナの仲間である。春の七草の一つ薺(なずな)もやはりアブラナ科で、これまた春たけなわの頃、薹が立って小さな小さな白い十字花を咲かせる。咲いた後には三味線のバチのような種をつける。いわゆるぺんぺん草である。菜の花の絢爛とは比ぶべくもない地味な花だが、菜の花畑の畦にひっそりと咲く様子は健気である。
菜畑に花見がほなる雀かな 松尾芭蕉
菜の花や淀も桂も忘れ水 池西言水
菜の花の中に城あり郡山 森川許六
菜の花や鯨もよらず海暮れぬ 与謝蕪村
菜の花の中を浅間のけぶりかな 小林一茶
菜の花に汐さし上る小川かな 河東碧梧桐
菜の花の黄のひろごるにまかせけり 久保田万太郎
菜の花といふ平凡を愛しけり 富安風生
菜の花の暮れてなほある水明り 長谷川素逝
菜の花や夕映えの顔物を言ふ 中村草田男
家々や菜の花いろの灯をともし 木下夕爾
菜の花に少年海を好みけり 五所平之助
一輛の電車浮き来る花菜中 松本旭