桃の花(もものはな)

 桜や梅にくらべると、一歩下がって控えているような感じだが、春風駘蕩の気分がつくづく味わえるのは、山ふところの日だまりに桃の花が咲いている景色ではないだろうか。よく見比べれば桃の花は梅や桜よりずっと華やかで、いかにも春の花らしい風情がある。だから万葉の時代から桃の花は大変喜ばれ、大伴家持が『春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ乙女』と詠んだように、汚れを知らぬ明るさいっぱいの少女にも例えられた。

 このように、桃の花を純真で健康的な乙女の象徴とみなす習いは中国伝来の思想でもあった。「詩経」という今から3000年も前の詩集に桃の花をうたった有名な詩がある。「桃の夭夭たる、灼灼たる其の花。之の子ゆきとつがば、其の室家によろしからん」。若々しい桃の木が光輝くように花を咲かせている。桃の花のように美しいこの娘はお嫁に行ったらきっとうまく婚家にとけ込めるだろうよ、という花嫁さんへのはなむけの歌であろうか。いかにも春の桃の花咲く季節の喜びを表している。

 もう一つ、桃は邪気を払う霊力を持つ木ともされていた。中国で古来から信仰対象となって来た女仙西王母が住む崑崙山には、3000年に一度実をつける仙桃が茂っているという。これを食べれば不老不死が叶うと言われている。漢の武帝が天上界から降りて来た西王母にこの仙桃を授かったという伝説がある。確かに前漢第7代皇帝劉徹(武帝)は匈奴を追い払い西域を手中に収め、安南(ベトナム)から朝鮮半島までを平らげて、紀元前140年頃には広大な漢帝国を築いたのだが、69歳で死んでしまった。69歳といえば当時としてはまあまあ長命の部類ではあろうが、仙桃が素晴らしい効能を顕したとも言えない微妙なところである。

 とにかく桃の薬効霊験あらたかなる事が日本にも伝わって、奈良時代以来長く尊ばれてきた。今でも桃の実の核(タネ)は漢方に用いられ、桃の葉は煎じて汗疹の薬にされている。

 桃と言えば「桃源郷」の故事も思い出される。六朝時代東晋の詩人陶淵明(365─427年)が、おそらく地元に伝わっていた昔話をもとに書いたのであろう『桃花源記』という作品で有名になった。湖南省武陵の漁夫が谷川を遡っているうちに道に迷い、ようやくたどりついた村はこの世のものとも思われない素晴らしい所で、一年中桃の花が咲き乱れ、物が豊かで、人々は親切此の上なく、大歓待を受けて夢見心地の日々を送った。帰ってからまたその地に行きたくなって出かけてみたが、どうしても行き着けなかったという話である。西王母の仙桃園にせよ、桃源郷にせよ、極楽のような所には必ず桃の花が咲いている。

 梅はとうに散り桜も咲いた4月上旬、桃が桜の花よりちょっと濃いめの淡紅色の五弁の花を開く。3月3日は雛祭。陰暦の昔の3月3日は現在の4月上旬に当たり、まさに桃の花のまっ盛りであった。だからこそ雛祭は桃の節句とも呼ばれ、詩経の昔からの伝統で女の子の花としてもてはやされた。『三月三日桃の花を御覧じて、三千代へて成りけるものをなどてかは桃としもはた名づけそめけむ』(三千年たって咲いたという花をどうしてまたモモ(百)なんて名付けたんでしょうね)という花山院の歌も、桃の節句を詠んだものである。しかし陽暦の3月3日には、まだ桃は咲いていない。桃の花が無い雛祭では淋しいというので、花屋は温室で温めて開花を早めた桃の切り枝を売る。

 桃は花も美しいが実も旨い。現在普通に見られる桃は栽培品種で、果実が目的の白桃、大久保などのほか、花を観賞するためのハナモモがある。花桃には淡紅色のほか真っ白い白桃(しらもも)、紅と白に咲き分ける源平桃もあり、八重咲きもある。また缶詰用の黄桃、平たい実の蟠桃というものもある。

 桃の花は桃源郷説話を引くまでもなく、のどかで穏やかな雰囲気を醸し出す花である。さらに女の子の祭である雛の節句に飾られる花ということから、やさしいイメージも湧いて来る。古今の桃の花の句もおしなべてそうした優しい気分のものが目立つ。なお「桃」一字で用いた場合は普通は桃の実を指すことになり、「桃の実」「水蜜桃」などと共に秋の季語となる。

  船頭の耳の遠さよ桃の花   各務支考
  商人を吼ゆる犬あり桃の花   与謝蕪村
  故郷はいとこの多し桃の花   正岡子規
  海女とても陸こそよけれ桃の花   高浜虚子
  葛飾や桃の籬も水田べり   水原秋櫻子
  ゆるぎなく妻は肥りぬ桃の下   石田波郷
  野に出れば人みなやさし桃の花   高野素十
  縄文とおなじ貝食べ桃の花   斉藤梅子
  妹に口で負かされ桃の花   大原教恵
  育てしは男の子ばかりや桃の花   小野久仁子

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