三月半ば頃になると川や池の水が温かい感じになって来る。眠っていた鮒をはじめ小魚もいっせいに活発に泳ぎだす。そろそろオタマジャクシも孵るだろう。水草も早緑の芽を出して水中にそよぎ始める。岸辺にはタンポポが咲き、菜の花も開き、モンシロチョウが舞い始める。人間の方も、寒さに縮こまっていた背筋がなんとなくのびのびしてきたようだ。さあいよいよ春も本番、という感じの仲春の季語である。
万物甦る喜びと希望にあふれた季節の到来を、水が温かく感じられるようになったという、微妙な感覚で言い表したわけである。「ぬるむ」という柔かな響きも相俟って、喜びが徐々にふくらんで来る感じである。ここいらあたりが他の季節の到来とは異なる、あくまでも春の優しい感じである。
対照的な季語に秋の「水澄む」がある。こちらは気温・水温の低下とともに水中の微生物の活動も鎮まり、川底まで見通せるほど澄んで来る、清冽な感じがする。「三尺の秋水」などと研ぎ澄ました剱のたとえにも引かれるように、きりりとした、やや冷たい感じがする。これに対して「水温む」はあくまでも優しく、のびやかな感じである。
「水温む」で春の景色を詠むのももちろんいいのだが、ともすれば重複感が際立ったり、いわゆる「付き過ぎ」と言われる句になりがちである。上に述べたように、この季語にはいよいよ春も盛りだなあという感じが横溢しているから、何か全然別物を取り合わせた方が成功する確率が高いようで、歳時記に挙げられている例句にもそういうのが多い。
山本健吉によると、「水温む」は和歌の時代には季題として取り上げられず、連歌の時代になって春の季語とされたが、盛んに詠まれ始めたのは与謝蕪村、大島蓼太の天明以降のことであるという。
温む水、温む池、温む川、などとも詠み、また類縁の季語として「春の水」がある。
紅絹裏のうつればぬるむ水田かな 大島 蓼太
水ぬるむ頃や女のわたし守 与謝 蕪村
これよりは恋や事業や水温む 高浜 虚子
水底に映れる影もぬるむなり 杉田 久女
水温む如くに我意得つゝあり 星野 立子
しなやかな子の蒙古痣水温む 佐藤 鬼房
水温む泊るこころになりてをり 大野 林火
水温むうしろに人のゐるごとし 原子 公平
水温む流るるものに歩を合はせ 平手むつ子
日輪をとろりとのせて水ぬるむ 高井 瑛子