餅にヨモギの若葉を搗き込んだもので、我が国では平安時代からよく食べられるようになったらしい。雛祭りに飾る菱餅の中の緑色のものがこれで、草餅にはこの切り餅型と、できたての柔らかいものに砂糖や黄粉をまぶしたり、小豆餡をつけたり、餡を包んだり(草大福)したものの二種類が併存してきた。
曲亭馬琴編・藍亭青藍補「増補俳諧歳時記栞草」の春三月の項には、草餅に「くさのもち」とルビが振ってあり、類語として「菱の餅」「蓬餅」を挙げている。その解説には「三代実録」を引いて、「田野に草有り、俗に母子草と名づく。二月始めて生ず。茎葉白く脆し。三月三日、婦女これを採りて蒸し搗きてもちとなす。伝へて歳事とす」とある。
やはり3月3日の若菜摘みや「踏青」などとも相通じる風習で、中国から伝わったものである。六世紀にできた中国江南地方の習俗を集めた「荊楚歳時記」には、「三月三日に鼠麹菜(ハハコグサ)の汁を蜜と合わせて餅に入れて食べる。邪気を払い疫病除けになる」と書いてある。これらを見ると、昔の草餅は母子草を搗き入れたものだったようである。それが日本では室町時代にヨモギに変った。ヨモギの方がどこにでもたくさん生えているし、大量に採れ、同じように薬草としての効用もあるところから、母子草に取って代ったようである。足利将軍は3月3日に拝謁に来た諸侯に蓬餅を下賜したという。これらに云う3月3日はもちろん旧暦だから、今日の暦で云えば4月に入ってからということになる。
切り餅型の草餅はもち米を蒸したものに生のヨモギを刻んだものを搗き混ぜて作る。一方、餡や黄粉をまぶす柔らかな草餅は、主として米の粉(新粉)をこねて蒸し、これに茹でて細かく刻んで置いたヨモギを混ぜて、擂粉木でつんつん搗いて作る。
戦前はもとより戦後も昭和30年代までは、どこの家庭でも春になると、母親が子供達に手伝わせながら、後の方のタイプの草餅を盛んに作ったものである。平らに延ばした餅で餡をくるんだ餡餅にする場合もあるが、簡便な方法として糸切り団子もよく作られた。母親がタコ糸の一端を口にくわえて、棒状に延ばした草餅に糸をひと巻きしてくいと引っぱると、切れた餅がアンコの中にぽとりぽとりと落ちて行く。見つめる子供たちは思わず生唾を呑み込む。母親の唾液もタコ糸を伝わってかなり混入して、独特の味わいとなる。その時分になると、家中にヨモギの香りが漂い、いっぺんに春が来た感じになって、子供ばかりか大人までが楽しい気分になるのであった。
両の手に桃と桜や草の餅 松尾芭蕉
旅人や馬から落とす草の餅 正岡子規
草餅の濃きも淡きも母つくる 山口靑邨
掌中の珠とまろめて草の餅 長谷川かな女
子をおもふ憶良の歌や蓬餅 竹下しづの女
草餅や帝釈天へ茶屋櫛比 水原秋櫻子
雨はじく傘過ぎゆけり草餅屋 桂信子
影ゆれて花いちもんめ草の餅 佐藤鬼房
人あたり柔らかく生き蓬餅 岩城久治
朝市の農婦の皺や草の餅 梶原敏子