東風(こち)

 春先になると、冬型の気圧配置が弱まり、日本列島には太平洋側から東風が吹くようになる。これが吹くようになると寒気が緩むので、春を告げる風として喜ばれてきた。しかし、海上では時折非常に強い台風なみの風となることがあり、漁民は「時化ごち」と言って警戒する。

 東風は雨を伴うことが多く、草や木の芽をふくらませ、花を咲かせる。魚偏に春と書いてサワラ。二月下旬から四月にかけて、産卵期に瀬戸内海でとれる鰆は滅法うまい。照焼も旨いが白味噌に漬けた鰆の味噌漬けは天下一品である。昔から瀬戸内でとれた鰆を京都、大阪の人たちが大いにもてはやしたせいであろう、この魚が「春の魚」という字を獲得した。しかし駿河湾や相模灘などで冬にとれる寒鰆の方が、脂が乗りきってよっぽど旨いという人もいる。とにかく、関西から瀬戸内方面には鰆が乗って来る風ということで、「さわらごち」という言葉もある。

 東の風をなぜ「こち」というのかはっきりしないが、万葉集の歌にも出て来るから、ずいぶん古くからある言葉である。東風の歌で最も有名なのは、なんと言っても菅原道真の「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」であろう。

 道真は899年、醍醐天皇の下で右大臣となったが、ライバルの左大臣藤原時平が謀略をめぐらせ、「道真は自分の娘を嫁がせている貴方の弟を天皇にするため、貴方を廃そうとしていますよ」と醍醐天皇に讒言、これがため道真は太宰府に左遷されてしまった。要するに道真は宮廷の権力闘争に破れたわけで、この歌は都落ちの恨み節である。

 藤原氏はその後がっちりと勢力を張り、道真はなす術も無く任地の太宰府で死んでしまう。ところがそれからがいけない。十年とたたないうちに時平が死ぬと、皇太子が没し、さらに次の皇太子になった時平の外孫慶頼王も亡くなる。そして内裏に落雷、高級官僚が死んでしまった。これはみんな道真の怨霊だということになって、慌てて太宰府に天満宮を作って道真に太政大臣を追贈、天満天神菅原道真公と神様に祭り上げた。九州だけでは怒りが解けそうもないと、京都にも北野天満宮を建てた。それから千有余年、天神様は全国至るところに祀られ、受験の神様となり、「東風」という言葉は誰でも知っている言葉になった。ちなみに南風は「はえ」と言うが、「こち」に比べれば認知度は比べようのないほど低い。天神様のご威光は偉大である。

 東風は四月頃まで吹くから三春を通じて使える季語とされているが、やはり早春の風であろう。春一番などの南風と違って、やや冷たさを感じる風である。しかしもう日脚はだいぶ伸びて、太陽もかなり元気を取り戻したような光を投げ掛けてくる。いよいよ春だ。そんな感じを抱かせる季語である。雲雀を呼び寄せたり、梅を咲かせる風だからと、雲雀東風、梅東風という言い方もある。

  河内路や東風吹送る巫女が袖   与謝蕪村
  亀の甲並べて東風に吹かれけり   小林一茶
  夕東風や海の船ゐる隅田川   水原秋櫻子
  東風の船汽笛真白く吹きやめず   山口誓子
  われもまた人にすなほに東風の街   中村汀女
  荒東風の濤は没日にかぶさり落つ   加藤楸邨
  東風寒く皮はぎ皮をはがれけり   鈴木真砂女
  梅東風へ車夫前傾の深さかな   朝妻力
  ぶだうの枝整へてをり雲雀東風   笠原和恵
  東風の波切って八つの櫂揃ふ   奥田麦穂

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