辛夷(こぶし)

 モクレン科の落葉高木で日本固有の花木である。北海道から九州に至る日本の山地に自生し、三月から四月にかけて、まだ寒さの残る山肌に直立した巨木の枝いっぱいに純白の花を咲かせる。平地の公園などに植えられたものは二月末から三月早々には花が咲き始める。

 「指標植物」というものがある。ある地域の特性を示したり、環境条件の変化によって花や実の付け方を変えたり、開花、紅葉の遅速で気候や季節の推移変動を知らせたりする指標となる植物を言う。辛夷も指標植物の一つで、これが咲けば「春」ということになり、昔の人は田圃を耕したり種を蒔いたりした。そこで辛夷のことを「田打桜」とか「種蒔桜」と呼んだりもする。

 辛夷は高さが10メートルくらい、山地には20メートル近くの巨木もある。東京では駒込の六義園に巨大な辛夷がある。大きく拡げた枝の先に、うぶ毛の生えた花芽が一つずつ着き、冬を越す頃になるとそれがだんだんに膨らみ、やがて割れると、中からつぼみが現れる。それが赤ん坊の握りこぶしに似ているというので「コブシ」という名前が付けられたという説がある。また膨らんだ蕾みが筆の穂先に似ているので木筆と書いてコブシと読ませることもある。

 蕾みが開くと純白の6枚の花びらが現れ、かぐわしい香りを発する。白木蓮とよく似た花だが、それより小さく、つつましい感じがする。まだ葉が一枚も出ていない時に一斉に咲くから、大きな木全体が真っ白に輝くようである。平地から山を仰いだ時、あるいは早春の山歩きをしていて向いの山腹に満開の辛夷を発見した時、その嬉しさは格別である。

 都会地の庭園などにはあまり大きくならないシデコブシが植えられている。これは花弁も萼も一緒になって細く十数片もの花びらが、しばしばよじれたように咲く。あたかも注連縄にぶらさがっている幣(しで)のようだというところから命名された。これまた早春の花として珍重される。

 春を代表する花は何と言っても桜であり梅だが、辛夷もこのように春を告げる花として昔から愛されてきた。その花は爽やかで清純で、まだ寒い中を健気に咲き出す。これが辛夷の持ち味だが、何と言っても大木になってしまうので、ごちゃごちゃした江戸の町中にはふさわしくない。そのせいであろうか、昔から人々に好まれた花にしては江戸時代の古句に辛夷を詠んだものが意外に少ないようである。

 江戸初期の寛永十年(1633年)に出た松江重頼の俳諧書「犬子集」には『咲く枝を折る手もにぎりこぶしかな』というふざけた句が載っている。この当時の俳諧は、約束事に縛られてがんじがらめになった連歌と決別しようとしていた頃なので、このように思いきって洒落のめしたような句が好まれたふしがある。江戸中期に蕉風俳諧にいそしんだ加舎白雄(1738─91)には『雉子一羽起ちてこぶしの夜明けかな』と、辛夷の本質をよく表した奇麗な句がある。

 江戸後期の小林一茶(1763─1827)には『さほ姫の御目の上のこぶしかな』という句がある。春を司る女神佐保姫の息吹ただよう心地よい季節になった。視線を上げると青空に映えて純白の辛夷の花が輝いているではないかという、実にのびやかな感じの句である。ところがおっとどっこい。ひねくれものの一茶の句はそんな通り一辺のきれいごとで済むはずがない。実はこの花は女神様の「目の上のコブシ」だと言うのである。春を告げるのはこの私、佐保姫の仕事なのに、ええい憎らしい、このお先っ走りの辛夷が人間どもに春の訪れを教えちゃっているじゃない、というところだろうか。

 明治以降、辛夷は本来の美しさを真っ当に評価され、素直な句が続々と生れるようになる。

  降りしきる雪をとどめず辛夷咲く   渡辺水巴
  町中の辛夷の見ゆる二階かな   鈴木花蓑
  一弁のはらりと解けし辛夷かな   富安風生
  君が門こぶし花さくうす月夜   中勘助
  一山に一樹のみある夕辛夷   能村登四郎
  山垣の雲ひらきつつ辛夷かな   飴山實
  花辛夷信濃は風の荒き国   青柳志解樹
  みな指になり風つかむ花辛夷   林翔
  ひたに来し無冠の頭上花辛夷   名取思郷
  夜空にもありし奈落や花辛夷   山田弘子

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