亀鳴く(かめなく)

 亀には声帯など発生器官が無く、実際には鳴くことはないらしい。しかし、春になり池から這い出した亀が石の上などに日向ぼっこしているのを眺めていると、時にはクウクウとくらいは鳴くかも知れないと思ったりする。いかにものんびりした春の風情を感じさせる季語である。

 どの歳時記を見ても、夫木和歌抄(鎌倉後期の類題和歌集、1310年頃成立)にある「川越のをちの田中の夕闇に何ぞと聞けば亀のなくなり」(藤原為家)という歌がもとになって生れた季語だとしている。瀧澤馬琴編の「俳諧歳時記栞草」にも春二月の項に「亀鳴」が揚げられ、この和歌が載せられている。

 秋の季語に「蚯蚓鳴く(みみずなく)」というのがある。ミミズもやはり鳴いたりはしないのだが、秋の夜長に地面の下でジージーと寂しげな虫の鳴き声がする。一説には螻蛄(けら)の鳴き声だともいう。

 とにかく「亀鳴く」は「蚯蚓鳴く」と並んで面白い季語の双璧と言えよう。春といい、秋といい、何となくあいまいな季節の移り変りに、時として何のものとも分からないかすかな物音が聞こえて来ることがある。別に怖くなるような声ではないが、何が発する物音なのか分からないことにはどうにも落着かない。そこで、亀や蚯蚓が鳴いていることにしてしまったのであろう。

 「亀鳴く」は旧暦二月の季語とされているから、今の暦で言えば三月から四月頃にあたるだろう。草が萌え、水は温み、御玉杓子がうじゃうじゃと湧き出る頃合いである。春眠暁を覚えずで、人間もすっかりのんびりした気分に浸る。のんびりと歩いていたら、誰かに声をかけられたような気がして、振り返ると誰もいない。おやおや空耳だったのか、それとも異次元世界からの呼びかけだったのか。何とも不思議の世界に誘われる季語である。

  裏がへる亀思ふべし鳴けるなり   石川桂郎
  亀鳴くや事と違ひし志   安住敦
  こんな夜は亀も鳴くかや集ひ来よ   高木晴子
  老い易く老いて亀鳴く夕べかな   永田耕一郎
  亀鳴くはきこえて鑑真和上かな   森澄雄
  亀鳴くや独りとなれば意地も抜け   鈴木真砂女
  亀鳴くやこゝろのうちの善と悪   山本蓬郎
  人生のうしろの方で亀鳴けり   山崎聰
  年輪か単なる皺か亀鳴けり   宮崎すみ
  眠れざる夜は桂郎の亀鳴けり   神蔵器

閉じる