蛙(かはづ、かえる)

 「古今集」の序に「花に鳴く鴬水に棲む蛙の声をきけば、生きとし生けるものいづれか歌を詠まざりける」と書かれて以来、蛙はその「鳴声」をもってたくさんの和歌に詠まれ続けて来た。ところが芭蕉は鳴声には耳を藉さず、蛙が水に飛び込む「音」を取り上げた。しかもそこでは、蛙は「古池に飛び込む」と詠まれながらも主役ではなくて、静寂幽邃な雰囲気を際立たせるための引立て役になっている。この句によって芭蕉は新境地を拓いたわけだが、同時に「蛙」も俳句(俳諧)の世界で一躍重要な季語に祭り上げられることになった。

 俳句では「かえる」とは言わずに「かはづ」と詠むのが慣習のようになっている。傍題として初蛙、昼蛙、夕蛙、遠蛙などがあり、種類別に殿様蛙、赤蛙、土蛙なども春の季語になっている。種類別に言う場合はもちろん「トノサマガエル」「ツチガエル」というように、「かはづ」とは言わない。しかし、近代俳句では「蛙」という漢字が使われていても「かはづ」よりは「カエル」と読んだ方がいいものも見受けられる。「蛙は『かはづ』である」と墨守することもないように思う。

 ここで注意しなければならないのは、「蟇(ヒキガエル、ガマガエル)」と「雨蛙」は夏、「河鹿(カジカ)」は秋の季語だということである。元来、蛙というものは春に産卵し終わると一旦休眠し、初夏から本格的に活動するので、夏の季語とした方が素直なのだが、やはり俳句的な気分としては、鳴き交わす声に春を感じて、代表選手のアカガエルやトノサマガエルを春のものとしたのではなかろうか。アマガエルは少し遅れて晩春から初夏の頃に出て来て梅雨の中で生き生きとするし、ヒキガエルは蚊など飛ぶ虫が出盛る夏によく見られるから、夏のものとされたようである。カジカガエルは夏の終わりから秋に涼しげな声を聞かせてくれるものだから、これが秋とされるのは頷ける。

 蛙という生き物は実にユニークである。2億年前のジュラ紀にはもう既に現在とほぼ同じ姿形のカエルがいたという。両生類という魚類と爬虫類の中間に位置づけられる脊椎動物で、サンショウウオやイモリと親戚なのだという。北極と南極を除く世界各地に分布し、ざっと3000種類の蛙がいる。

 あまりにも普遍的な存在だから、私たちは蛙を見ても別に不思議とも何とも思わないが、よく見ると全く変な格好である。まず首というものが無い。胴体の一部が扁平な三角形になって、そこに巨大な口や目鼻がくっつき、4本の足が出ているだけである。前足の指は4本で離れており、後足の指は5本で水かきでつながっている。これといった武器を持っていないから、大概は水辺の近くの草むらに棲み、危険を察知するとすぐに水に飛び込む。ウシガエル(食用蛙)のように水中にいる時の方が長い臆病なのもいる。ただしヒキガエルは耳の後ろから毒液を出して外敵を追い払う術を心得ているので、産卵期以外は水に入らず、地上のしめっぽい所を徘徊している。

 変温動物なので冬は地中や山林の落葉の下などに潜り込んで冬眠する。本州中部以南では二月半ば頃になると這い出して、田んぼや水たまりに産卵する。この時に雌を呼ぶために水辺にたくさん集まってケロケロ、ガアガア鳴き騒ぐ。これが「蛙合戦」とも呼ばれ、春の訪れをもっともにぎやかに告げるものとして、歌人を喜ばせた。

 このように蛙は昔から人の住む近くに無数にいたから、世界中あらゆる所でおとぎ話や俗信の主人公にされてきた。蛙(特にアマガエル)は気圧の低下に伴って天気が崩れそうな時によく鳴く。瑞穂の国日本では稲の栽培が何にも増して重要なものだった。水稲に水は欠かせない。そこで「雨を呼ぶ」蛙は田の神様のお使いと考えられ、蛙に似た石をお祀りしたりもした。京都・高山寺の「鳥獣戯画」の蛙相撲、江戸時代の「児雷也」物語、果ては筑波のガマの油売りなど、蛙は古くから日本人に親しまれてきた動物である。ヨーロッパ各地にも蛙に姿を変えた王子様の話や、家に住み着いたヒキガエルを守り神として大切にする習慣がある。

 俳句をやる人は一度は蛙を詠んでみようと思うらしく、蛙の例句は枚挙にいとまがないほどである。しかし、作ろうとすると、「古池や……」が脳裏を占領して、なかなか句案がまとまらないようでもある。蛙のユーモラスな姿や動作に焦点を定めるか、その鳴声に重ねて己の心境をうたうか、作り方も二つに分かれるようである。

  古池や蛙飛び込む水の音   松尾芭蕉
  およぐ時よるべなきさまの蛙かな   与謝蕪村
  痩蛙まけるな一茶是ニあり   小林一茶
  夜の雲にひびきて小田の蛙かな   飯田蛇笏
  明日は又明日の日程夕蛙   高野素十
  蛙の目越えて漣又さざなみ   川端茅舎
  人を信じ蛙の歌を聞きゐたり   山口青邨
  昼の酒濁世の蛙聞きながら   飴山實
  原稿紙ペンの遅速に遠蛙   吉屋信子
  夕蛙農婦足もて足洗ふ   森干梅

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