沈丁花(じんちょうげ)

 中国原産の常緑低木。大きくなっても1.5メートルくらいで、こんもりと形よく球状になり、春の彼岸の頃に良い香りの花を咲かせるところから、日本でも昔から庭木として盛んに植えられた。

 開花期は早いところでは二月末から始まり、彼岸あたりを絶頂期に四月までかなり長く続く。また一月初めには早くも枝先に赤紫のつぼみをつけて、かすかな芳香を漂わせ始める。この香りは開花期とともに強烈になる。うららかな朧月夜の下にどこからともなく沈丁花が匂って来ると、いかにも春の夜だなあという感じを抱く。

 沈丁花がいつごろ中国から渡来したのかははっきりしないが、どうやら室町時代に遣明船で運ばれて来たらしい。中国名では瑞香というが、まるで沈香と丁香を合わせたような香りを発するということから、室町貴族たちが「沈丁花」と名付けたようである。

 ちょうどこの頃は足利幕府が全盛で、室町文化が花開き、香道が盛んになった。中国から沈香(伽羅)や丁香(チョウジの蕾を乾燥したもの。クローブ)をはじめ、いろいろな香料、漢方薬が入って来た。東大寺正倉院の宝物の香木「蘭奢待」は奈良時代にもたらされた極上の沈香だが、足利義満はじめ、後には信長、家康などもこれを切り取って香を楽しんだ。

 沈香はインドやベトナムなどに成育する常緑樹。その大木が倒れて土中に埋もれ、長年月の間に樹脂が浸出し固まって香木となるのだが、この沈香も同じジンチョウゲ科だから、花の沈丁花が沈香に似た香りを出すのももっともだとも言える。

 丁香の丁子はインドネシアのモルッカ諸島原産の常緑高木に咲く花の蕾を干したもので、やはり強烈な匂いを発する。今日でもクローブと言って、肉料理やケーキ作りには欠かせない香料である。2センチくらいの犬釘のような形をしており、昔の中国人は釘を表す「丁」の字をつけて、丁子と呼んだ。ヨーロッパ人は昔から胡椒とともにこれを珍重し、インドあたりから陸路運んでいたが、途中の小アジア近辺で山賊の餌食になるのを嫌って、何とかして海路によって手に入れようとした挙句、大航海時代が始まり、副産物としてアメリカ大陸が発見されたのだという。

 沈香も丁香も特有の香気と鎮静作用などを持っているから、中国でも日本でも薬用として珍重された。曲亭馬琴は執筆のかたわら、奇応丸という丸薬を作っては家計の足しにしていたが、この薬は朝鮮人参、熊の胆、麝香などに沈香を混ぜたもので、腹痛、食中毒、吐き気、子供の神経過敏症などに効くという。しかし、いくら江戸時代でも麝香や沈香の本物を混ぜたのでは非常に高い薬になったに違いない。馬琴の薬を買っていたのはもっぱら庶民階級だろうから、果たして曲亭奇応丸に本当の沈香が入っていたかどうか。もしかしたら沈丁花でも混ぜていたのかも知れないと、天国の馬琴が怒り狂うようなことを想像したくなる。

 とにかくこのように貴重な沈香と丁香を合わせ持つ香りの木だから、室町時代以来、金持は沈丁花を競って庭木にしたようである。沈丁花は丈夫な花木で、挿し木でも割に簡単に増やせる。それにもかかわらず、第二次大戦前まではそうどこにでもあるというものではなかった。富者の庭園にも、沈丁花をたくさん植えるということはなく、片隅にさりげなく植えられるものだった。

 やはり匂いが強烈だから、あっさり好みの日本人はこういう花を主役に立てる気持にならなかったのかも知れない。今日でも沈丁花の匂いを嫌う人がいて、「トイレの臭い消し」などという悪口もある。それに沈丁花は根元を始終踏みつけられるような所では突然枯死してしまう。日影でも生きているが花付きが極端に悪くなる。町人文化の花開いた江戸の下町には、どうもあまり似つかわしい花木ではなかったようである。

 そんなわけで沈丁花は江戸時代の俳諧にはほとんど登場しない。生活に西洋文化が取り入れられるようになった現代になって、沈丁花の人気は盛り上がり、特に第二次大戦後の経済成長期、大都市のベッドタウンに小住宅がむやみに建てられるようになったころ、庭木として急速に普及した。植え放しにしておいてもあまり大きくならず、毎年春になれば自然に花を咲かせるというのが、狭小住宅にはうってつけだったのだろう。

  沈丁の香の石階に佇みぬ   高浜虚子
  鎌倉の月まんまるし沈丁花   高野素十
  沈丁の香の強ければ雨やらん   松本たかし
  部屋空ろ沈丁の香のとほり抜け   池内友次郎
  沈丁やをんなにはある憂鬱日   三橋鷹女
  ある時は沈丁の香のみだらなる   土山山不鳴
  闇濃くて腐臭に近し沈丁花   野澤節子
  天鵞絨のごとき夜が来る沈丁花   戸川稲村
  沈丁にすこし開けおく夜の障子   有働亨
  深く息して沈丁を離れけり   石川芙佐子

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