地虫穴を出づ

(ぢむしあなをいづ)

 春の兆しを感じて地中に冬眠していた虫たちが這い出して来ること、およびその時季を言う。暦の二十四節気にある「啓蟄(けいちつ)」がこれに当たる。今日のカレンダーで言うと三月六日頃になる。ただし、「啓蟄」という季語が三月六日頃に限定された季語であるのに対して、「地虫穴を出づ」は二月中旬でも三月中旬になって用いてもおかしくはない。本来は「地虫穴を出づ」だが、長すぎるので実作ではもっぱら「地虫出づ」と詠まれる。

 啓蟄の蟄は「蟄居謹慎」などと言うように「閉じこもる」意味であり、啓は「ひらく」だから、まさに「虫穴を出づる」ことである。結局、「地虫出づ」は中国から伝わって来た「啓蟄」という難しい言葉を大和言葉に言い換えた季語とも言える。

 俳句では近頃は特に「啓蟄」と詠むことの方が多いようである。「ケイチツ」という硬質の響きと難解語の持つある種の面白さもあって、若い人にも盛んに用いられるからではないか。また「地虫がもぞもぞ這い出すなんて気持ち悪い」という人も多いだろうし、都会住まいでは実際に「地虫出づ」光景を目の当たりにする機会など滅多にないという事情もあろう。そんなわけで「地虫穴を出づ」という季語は最近かなり旗色が悪くなっている。しかしユーモアがあって、なかなか好もしい季語ではないか。

 啓蟄が「春もそろそろ本番」という時候に重心を置いた季語であるのに対して、「地虫出づ」はもちろん春の気分を濃厚に持ちながらも、活動し始めた虫たちに視線を這わせ、より具体的に自然界の動きをうたい、そこから自らの心情を述べるといった具合に用いられることが多い。歳時記でも「啓蟄」は「時候」の部に、「地虫出づ」は「動物」に分類されている。

 地虫とは地中に冬眠する虫の総称であり、幼虫(芋虫)、サナギ、成虫といろいろの形態で冬ごもりしていたのが、春になると一斉に地上に現れる。昔の人はこれを見て、躍動の時節になったと感じたのである。なかでも最も人の目につくのは蟻である。冬には全く姿を消していたのに、暖かみが増して来ると、どこからともなく現れて、せっせと歩き回る。これなら今でも団地の中の公園でもよく見られるだろう。そのほか注意して見れば、地面にはいろいろな虫たちが活動し始めているのが分かる。

 それらをねらって蜥蜴(とかげ)も這い出して来る。所によっては蛇まで出て来る。昔は蜥蜴も蛇も、蛙や蟇(ヒキガエル)まで「虫」の一種として、これらが活動し始めるのをひっくるめて「地虫出づ」と言った。その中でも特に目立つ蟻、蛇、蜥蜴をそれぞれ「蟻穴を出づ」「蛇穴を出づ」というように別立ての季語に仕立てた。

  東山はればれとあり地虫出づ   日野 草城
  地虫出づふさぎの虫に後れつつ   相生垣瓜人
  苦虫もふさぎの虫も穴出づや   杉山 岳陽
  地に月日空に月日や地虫出づ   橋本 鶏二
  走り根のがんじがらめを地虫出づ   倉橋 羊村
  蒲団叩く音を二階に地虫出づ   平本くらら
  喜寿迎へなほある命地虫出づ   松本つや女
  地虫出て犬の鼻息受けにけり   古谷 彰宏
  地虫出てはや弱腰と強腰と   高田 祐里
  地虫出づ人は宇宙に飛びたてり   中村まゆみ

「蟻・蟇・蛇・蜥蜴
  蟻穴を出て地歩くや東大寺   松瀬青々
  蟻穴を出でておどろきやすきかな   山口誓子
  蟻出でておもひおもひの道選ぶ   福永耕二
  蟇出でてすぐにおのれの位置を占む   山崎ひさを
  けつこうな御代とや蛇も穴を出る   小林一茶
  蛇穴を出れば飛行機日和かな   幸田露伴
  蛇穴をいでて耕す日に新た   飯田蛇笏
  蛇いでてすぐに女人に会ひにけり   橋本多佳子
  蜥蜴出て既に朝日にかがやける   山口誓子
  とかげ出て腹温めをり座禅石   邊見京子

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