じっと眺めると、実に可憐な花である。早春の路傍に、ぎざぎざして皺のある濃緑の葉の間から、直径一センチに満たない小さな青い四弁の花を咲かせる。踏まれても踏まれても、じっと匍匐して生き延び、あちこちに仲間を増やして行く。道端にひっそりとしているだけではない。畑だろうが、庭だろうが、至る所に生えるから、農民や園芸家には面倒な雑草なのだが、まだうそ寒い春先にいち早くこれが咲き出すと、散歩が楽しくなる。
それにしても犬の陰嚢とはずいぶんひどい名前をつけたものである。これは種の形から来ている。辛抱強く、注意深く観察していないと、実るそばから飛んでしまうので分からないが、けし粒ほどの種には真ん中に筋が入っていて、ややくびれた形をしている。言われてみれば、尻尾の巻き上がった雄犬を後ろから眺めた時に、こんな格好のものが見えるが、例を引くのに事欠いて、飛躍が過ぎる。
イヌフグリだけではない。気の毒になるほどの名前を付けられた草はかなりある。路傍の篠竹や垣根などに紅色がかった蔓をからませて這い上がり、夏になると一センチほどの、外側が白、内側が紅紫の可愛らしいラッパ形の花をつける蔓草がある。その名前は「ヘクソカズラ」。なかなかきれいな花で、秋には黄色いつやつやした球形の実をつける。これがからまった雑木の小枝や篠竹などを一枝伐り取って、信楽焼の掛花生けにでも挿せば風情がありそうだが、なんとも言えない悪臭を持っているので、敬遠されている。それでこんな名前が付けられた。
ママコノシリヌグイというのもある。タデ科の一年草で日影を好み、夏場に一メートルほど伸びた茎から薄紅色の花を穂状に咲かせ、これまた捨て難い味があるが、角張った茎や葉の裏には棘がいっぱい生えている。さわれば痛い。意地悪な継母がこれで継子の尻を拭って折檻する道具にちょうどよかろうというのである。 ハキダメギクという名前も可哀そうだ。明治時代に恐らくアメリカから入って来た南米原産の帰化植物で、夏から初冬にかけ黄色い花をたくさん付けるキク科の雑草である。とても丈夫な草で、吐く息が白くなる頃も道端でまだ花をつけている様子は健気な感じである。何もこのキクばかりがごみ溜めを好むわけではないのだが、そんなところにまではびこる雑草だということで、こういう差別的な命名がなされたようである。
帰化植物と言えば、イヌフグリも最近都会地で見受けられるものは、ほとんどがオオイヌフグリという、明治になって日本に入って来たヨーロッパ産である。タンポポがセイヨウタンポポに征服されてしまったように、イヌフグリの世界もこの外来種に占領されてしまった。日本古来のイヌフグリの花が淡い紫紅色なのに対して、今日我々が見ているオオイヌフグリの花は青い色をしている。
あまりにもありふれた雑草だからか、俳句を詠むような人でもなければ目にも止めない。この草の繁殖力がもう少し弱ければ、逆に花壇のグランドカバーやロックガーデンの下草に珍重されたりするのかも知れない。強過ぎるものは、植物に限らずあまり愛されないようである。
いぬふぐり星のまたたく如くなり 高浜虚子
古利根の春は遅々たり犬ふぐり 富安風生
犬ふぐり大地は春を急ぐなり 阿部みどり女
いぬふぐり囁く足をあとしざり 阿波野青畝
軍港へ貨車の影ゆく犬ふぐり 秋元不死男
犬ふぐり海辺で見れば海の色 細見綾子
犬ふぐり咲くよと見ればかたまれる 清崎敏郎
犬ふぐり野川かがやきついて来る 米谷静二
犬ふぐり見てゐる前で踏まれけり 奥田杏牛
納骨の膝つけば瑠璃犬ふぐり さぶり靖子