立春の頃はまだまだ寒さが厳しいが、二月も中下旬になると徐々に陽気がよくなる。日によってはうららかな陽射しに満開の梅が匂い、下萌えの草の緑も生き生きと見える。誰もが寒さから解放されて明るい気持になる。暑すぎず寒すぎず、ほどよい暖かさに浮き浮きした気分になる。春の季語「暖か」はこうした伸び伸びした感じを持っている。
もっとも三月になっても東京近辺に雪の降ることがあり、本格的な春が来るのはまだ先なのだが、芭蕉の高弟服部嵐雪が「梅一輪一りんほどのあたたかさ」と詠んだように、いち早く春の訪れを感じ取るところに俳人の生き甲斐のようなものがあり、二月から「暖か」を詠むのである。とにかく二月も半ばになると、やはり寒中の寒さとは異なり、あたりがなんとなく明るく暖かくなってきたような感じがするものだ。ろくな防寒施設・器具のなかった江戸時代の人たちは、こういうちょっとした季節変化に敏感で、さあいよいよ春だぞと喜んだ。冬の間身も心も縮こまった状態だったのが、解き放たれる感じになる。「暖か」にはそういう気分が含まれており、嵐雪句にもそれがうかがえる。
季語研究の先達山本健吉も書いているが、四季を温度変化で述べた季語として、夏の「暑し」、秋「冷やか」、冬「寒し」、そして春の「暖か」がある。秋は本来「涼し」であるべきだが、俳句では「涼し」という季語は夏に譲ってしまっている。これは猛暑に苦しむ最中にちょっとした涼風や木蔭に入った時に感じるわずかな涼しさをこよなく有難く思う心情から、「涼し」を夏のもとしたわけである。二月のまだ寒い最中に日溜まりやそよ吹く風に「暖か」味を感じるのも、似たようなところがある。
「あたたかい」には漢字の「暖」か「温」の字を当てる。どちらも同じような意味の字だが、「暖」はどちらかと言えば、気候や気温など外界の「あたたかさ」を表す際に使われるようである。これに対して「温」の方は身体や、心のうちに感じる「あたたかさ」、あるいは中の方からあたためる(温室、温習、温故知新など)意味に用いられることが多い。また「暖」が「摂氏一七度、春の暖かさです」などと客観的な「あたたかさ」を言うのに対して、「温」は「温顔」「温和」などの熟語もあるように主観的、精神的な「あたたかさ」を表す字だとも言える。だから季語の「あたたか」は漢字で書く時には「暖」がいいのだが、それによって身も心もあたたかになるといった気持を表したいというのならば、平仮名表記がいいかもしれない。
「暖か」には語調の関係からか「春暖」と詠まれることもあり、「ぬくし(温し)」という傍題もある。
この雨はあたたかならん日次かな 宝井 其角
あたたかな雨が降るなり枯葎 正岡 子規
枯山を重ねかさねてあたたかし 高野 素十
暖かや飴の中から桃太郎 川端 茅舎
跼み見るもののありつつ暖かし 後藤 夜半
暖かや背の子の言葉聞きながし 中村 汀女
あたたかや鳩の中なる乳母車 野見山朱鳥
あたたかや身より離るる天邪鬼 櫛原希伊子
燕岳の日が落ちてきてあたたかし 古館 曹人
隠れたる子の尻見えて暖かし 中山 一路