雛祭(ひなまつり)

 五節句(節供)の第二、上巳の桃の節供である。五節句は古代中国の暦から生まれたもので、人日(1月7日)、上巳(3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日)の五つを言う。「じょうし」という言葉通り、昔は3月の最初の巳の日に宮廷から民間に至るまで、いろいろな春の行事を催していたのだが、そのうちに3月3日に固定されるようになった。

 「踏青」という春の季語があるが、これも昔の中国で、青々としてきた春の野山に出かける上巳の行事だった。「曲水の宴」もやはり上巳に行われたもので、庭園や樹林を縫って流れる小川に杯を浮かべ、それが自分の前に来るまでに詩を作って、御上に献上するという宮廷行事。古代中国では貴族階級の間で大いに流行した。東晋時代(西暦265─420)の大書家、王義之は浙江省紹興近くの会稽山の一峰、蘭渚山の麓に構えた蘭亭で、仲間と共にこれに興じたことが記録に残っている。この季節はちょうど桃の花の咲く時期でもあり、桃(あるいは李)で作った酒や桃の花びらを浮かべた酒を飲んで息災長寿を祈ることもした。奈良時代に中国から日本に暦学が伝わるのと一緒に、こうした「踏青」や「曲水の宴」といった行事も導入され、宮中で盛んに催されるようになった。

 一方、日本には古くから、身の汚れや病魔を祓う「ヒトガタ」とか「カタシロ」というものがあった。木や草で作ったヒトガタで自分の体をなで回し、それに自らの罪穢れを移して川に流すことによって、災厄から逃れようとするものである。縄文時代の土偶も一種のヒトガタではなかったのか、という説もある。その真偽はさておき、平安時代には「巳の日の祓え」として紙製の人形を飾り、それを川に流すという習俗が確立していたという。そのヒトガタがやがて「人形」になり、幼児の玩具にもなっていった。

 3月3日の雛祭は、中国から輸入した上巳の行事と、「巳の日の祓え」と、女の子の人形遊びが合体して、室町時代にできあがったものらしい。

 はじめのうちは紙製のお雛さまだったが、室町時代の南宋交易で胡粉づくりの人形製作法が伝わり、本格的な人形が作られるようになった。元禄時代になると木や土の素地で精巧な顔や手を作り、その上に胡粉を塗って白く輝く肌を整え、美しい衣装を着せた雛人形が現れた。それと同時に段飾りも行われるようになった。しかしこの頃はまだ二段か三段の内裏雛中心の飾り付けで、今日のように五段から七段などという豪華なものが出て来たのは幕末から明治になってのことである。

 芭蕉に『草の戸も住み替はる世ぞ雛の家』という有名な句があるように、雛祭の風習は江戸時代も半ばには市民の間にすっかり定着していたようである。蕪村の愛弟子の几董には『うら店やたんすの上の雛祭』という句がある。天明の頃、18世紀後半になると、お雛さまはいよいよ裏店にも姿を現すようになったわけである。

 雛祭は何と言っても女の子のお祭りだけに、優雅で楽しい。端午の節句は武張っており、特に明治の富国強兵思想から尾を引いて、忌まわしい軍国主義礼賛の道具と化した一時期がある。それに比べると雛祭は、華やかでほのぼのとした家庭内の団欒気分を伝えてくれるところが好ましい。

 芭蕉の時代から今日まで、雛祭は俳句にたくさん詠まれている。幼女の行く末の幸を願う祭りであるから、優しさ、美しさを素直に寿ぐ作品が多い。また雛人形、ことに代々伝わるような素晴らしい人形の顔かたちそのものを美しく歌い上げている句も目につく。

 一転、飾り立てた雛人形に昔を思い、あるいは己の老いをつくずく感じるといった作風もある。

  雛の影桃の影壁に重なりぬ   正岡子規
  旅人ののぞきてゆける雛かな   久保田万太郎
  土雛は昔流人や作りけん   渡辺水巴
  笛吹けるおとがひほそき雛かな   篠原鳳作
  夜半の雛肋剖きても吾死なじ   石田波郷
  厨房に貝があるくよ雛祭   秋元不死男
  皆老いて雛の客とも思はれず   高木晴子
  雛の日や道玄坂の黄なる空   角川源義
  雛の日の鳥越といふ一軒家   齋藤美規
  三界に家なき雛を飾りけり   青木喜久

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