春になって、ああ日が長くなったなと感じるその気分を俳句では「日永」という季語にしている。
冬至の頃、日照時間は最も短くなり、東京近辺では午後四時を回るともう薄暗くなり始める。暮れから正月にかけて、いろいろな行事が重なり、あっと言う間に一月は終ってしまう。すぐに節分、立春。サラリーマンは三月人事異動が気になり、学生は入試や卒業を控えてばたばたする。役所勤めは年度末で大忙し、個人事業主はやはり年度末のあれこれや税金の申告などで大わらわ、というわけで二月は誰も彼も落ち着かない気分になる。
そんな二月も半ばを過ぎたころ、仕事に一区切りついてほっとしたような時に、ふと暖かい春の陽射しに気がついて、そういえば日がだいぶ伸びたなあと思う。なんとなく腰を下ろして一服したい気分になる。これが「日永」という季語の持つ雰囲気である。「長閑(のどか)」という季語も別建てとしてあるが、「日永」にも、こののどかな気分が含まれている。
実際には日が最も長くなるのは夏至の頃であり、「日永」は夏の季語であるべきだが、万葉集の時代から和歌では春の季題とされ、それを引き継いだ俳諧も春の重要な季語としている。やはり、暗く寒い冬が明けて、ふと気がついたら「日が永くなっていた」というちょっとした驚き、やれやれのんびりした気分になるなあという思いから、「日永は春」とされるようになったのであろう。
日照時間に関係した季語は四季それぞれにあり、春は「日永」、夏は「短夜」、秋は「夜長」、冬は「短日」である。いずれも「そう言えばそうだなあ」と感じる季節感から季語になっている。この四つの季語は江戸時代から俳人に大層好まれ、現代に至るまでおびただしい句が詠まれている。この四つの季語と、月、雪、花、それに梅雨、時雨あたりをこなしておけば、いっぱしの俳人として通ると言われるくらいである。
「日永」は初春から晩春、つまり二月から四月まで通して用いられる季語とされている。しかし初春はまだ厳しい寒さの日もあるから、「日が伸びたな、春になったな」というほっとした気持で、この季語が用いられることになろう。仲春の彼岸を境に、ぐんぐんと日が永くなって行くのが実感される。そして晩春になれば、春風駘蕩、いかにものどかな気分がこもった「日永」になる。同じ季語でも初、中、晩春でニュアンスは微妙に異なって来る。この微妙な差異は日永に取り合わされた景物によって鮮明になる。
「永日(えいじつ)」「永き日」「日永し」とも詠まれる。また日永と同じことだが、日の暮れるのが遅くなったということに焦点を絞った「遅日(ちじつ)」という季語もある。まあこれは日永の親類のような季語と言えようか。
永き日を囀りたらぬひばりかな 松尾芭蕉
永き日や目のつかれたる海の上 炭太祇
鶏の座敷を歩く日永かな 小林一茶
永き日に富士のふくれる思ひあり 正岡子規
文殊語り舎利弗眠る日永かな 内藤鳴雪
永き日や欠伸うつして別れ行く 夏目漱石
永き日や寝てばかりゐる盲犬 村上鬼城
いづれのおほんときにや日永かな 久保田万太郎
永き日のにはとり柵を越えにけり 芝不器男
丹頂のさて水に入る日永かな 三好達治
永き日や波の中なる波の色 五所平之助
永き日の大路小路を下ル入ル 上林レイ子
音もなく象が膝折る日永かな 角和