春惜しむ(はるおしむ)

 過ぎ行く春を惜しむ情感豊かな季語である。日本人は昔から春と秋が大好きで、その季節の移ろいに対する思いを詩歌に託してきた。「春惜しむ」と類似の季語には「行く春」「暮の春」「春深し」などがある。

 「暮の春」「行く春」と「春惜しむ」とはほぼ同時期の、春がまさに終わろうとする陰暦3月の末の10日間くらいを言う。両者の違いはなかなか微妙だが、どちらかと言えば「暮の春」が春も終わりということを客観的に捉えるのに対して、「春惜しむ」は「ああまた今年も春が過ぎてゆくのか」という詠嘆が込められている。

 『和漢朗詠集』に「惜春」という題の漢詩が載せられており、それが人口に膾炙して和歌に盛んに取り入れられるようになった。新古今和歌集には「待てといふに止らぬものと知りながら強ひてぞ惜しき春の別れは」(読み人知らず)という歌がある。この伝統が俳句に伝わって、季題として定着した。

 「行く春」には芭蕉の有名な「行く春を近江の人と惜しみける」という句がある。いままさに尽きなんとする春を近江の親しい人としみじみ送るのだという詠嘆である。こういう句を見ると、「春惜しむ」は「行く春」と極めて似通った情感を込めた言葉である。

 「春惜しむということばのなかに、楽しくばかりも過ごしていなかった一種のもの悲しい気分がふくまれている」と俳人の石川桂郎は言っている。その通り、主情的な言葉であるだけに、この季語を用いて作句する場合、「具体的な事物を的確に示したとき作品はつつましく成功し、空想や抽象的にとらえられたときは弱々しいものとなる」と、飯田龍太は講談社版「日本大歳時記」の解説で述べている。

  春惜しむ人や榎にかくれけり   与謝蕪村
  白髪同士春を惜しむもばからしや   小林一茶
  九品仏までてくてくと春惜しむ   川端茅舎
  窓あけて見ゆる限りの春惜しむ   高田蝶衣
  惜春やいつも静かに振舞ひて   星野立子

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