春(はる)

 俳句で言う春は、2月4日頃の立春から5月6日頃の立夏の前日までの約3ヶ月間である。立春の前後はまだまだ冬の寒さだが、日照時間が徐々に伸びてきて、日の光もだんだんと力を取り戻し、やはり冬が遠のいていくことが感じられる。俳人はこの気分をちょっと先取りして、「日脚伸ぶ」という言葉を1月下旬から2月早々の冬の季語に据えている。しかし、実際に日脚が伸びてきたのを感じるのは2月に入ってからのことであろう。

 2月も中旬になると、西高東低の冬型の気圧配置が弱まり、台湾付近で発達した低気圧(台湾坊主)が強い南風を伴って日本列島を北上し、「春の嵐」を起こす。また日本海を発達した低気圧が北上し、これに向って太平洋側から強い南風が吹き込む。この南風の最初のものが「春一番」である。春一番ほど強烈ではないが、春先には太平洋から東南の風が吹いて来る。昔の人はこれを「東風(こち)」と呼んで、春をもたらす風として喜んだ。この風が吹くと梅が咲き、コブシが咲く。

 3月になるとますます冬型気圧配置が崩れて、低気圧と高気圧がひんぱんに入れ替わり、日本列島は気象的には不安定な状態になり、4月まで晴、曇り、雨、大風が繰り返される。本州が移動性高気圧におおわれると空は真っ青に晴れ上がり、ぽかぽかした上天気になり、菜の花をはじめたくさんの花が一斉に咲き始め、やがて桜の開花が伝えられる。そういう上天気が数日あって、今度は太平洋岸を低気圧が通過するようなことになると、一転、うそ寒い曇り日になり、時として牡丹雪が降る。このように寒い日が3日続くと、暖かい日が4日続くという、いわゆる「三寒四温」の状態になる。「三寒四温」は中国大陸や朝鮮半島で冬に入る頃見られる現象で、従って俳句では冬の季語に立てられているが、日本本土ではどちらかと言うと2月から3月の、寒暖を交互に繰り返しながら本格的な春になって行く時期にふさわしい季語のように思える。

 また3月中旬から4月初めにかけてしとしとと雨が降り続くこともある。これを「菜種梅雨」とか「春霖」と呼ぶ。四月に入って日本列島が移動性高気圧におおわれ、うららかな春日を喜んでいる頃、中国北西部には猛烈な低気圧が発生し、強風が土砂を天高く舞い上げる。これが「黄沙」であり、日本上空にも飛んで来る。

 このように春という季節はまことに落着かない。せっかく暖かくなったと思えば、急に冬の気候に逆戻りする。待ちに待った桜が咲いたら、強風が花を吹き散らしてしまう。うららかな陽光に輝く菜の花も、長雨にうたれて無残な姿になってしまったりする。しかし、やっぱり厳しい冬をなんとか無事にやり過ごし、花の季節を迎えた喜びは大きい。俳句ではこの「待ちかねた」という感じを詠んだり、春の上天気を素直に寿ぐものが多い。現実の春のぐずついた天気を嘆くような句はあまり見当たらないのである。やはりこれは、折角巡って来た春をけなしたくないという気持の現れであろうか。

 春は「張る」「発る」「晴る」から出たものだという説がある。その真偽はさておいて、確かにそういう気分の季節である。俳句では「春」一字を用いた例ももちろんあるが、「春の空」「春の山」「春の川」「春の海」「春の月」「春の風」「春の雪(春雪)」「春の雨(春雨)」など、春の字をかぶせて使われることが多い。こうして使われるうちに名句がたくさん詠まれて、それぞれ独自の詩的世界を形づくり、独立の季語になっていく。独立の季語として立てられるまでにはなっていないが、よく使われるものには「春の人」「春の旅」「春うれし」などがある。

 ところで、旧暦(太陰太陽暦)では1月(睦月)、2月(如月)、3月(弥生)が春であった。昔は年が改まる正月と共に春が始まったから(もっとも暦のずれによって年によっては12月に立春がやって来る年もあったが)、とにかく新春、立春という春のスタートを意味する季語に始まって、順次、春の季語がなだらかに続いた。ところが明治5年に太陽暦に移行してから、冬の真っただ中にお正月が来ることになった。しかし正月を冬に押し込めてしまうのは気分が悪い。そこで苦肉の策として松の内だけを「新年」として切り離し、「初春」という特別の春に仕立てた。さらに七草粥や11日の鏡開き、15日の小正月、どんど焼き(左義長)などの正月行事は、冬でもない春でもない「新年」という観念上の季節に組み入れ、大寒など現実の冬と併存させるというややこしいことになった。というわけで現在の俳句の世界では「新年の春」と「本当の春」の二つがある。

  おもしろやことしの春も旅の空   松尾芭蕉
  先ゆくも帰るも我もはるの人   加舎白雄
  春や昔十五万石の城下かな   正岡子規
  腸に春滴るや粥の味   夏目漱石
  春なれや満月上げし大藁家   川端茅舎
  春の町帯のごとくに坂を垂れ   富安風生
  春を病み松の根っ子も見あきたり   西東三鬼
  バスを待ち大路の春をうたがはず   石田波郷
  三春へ先づ一歩する心かな   高木晴子
  春ひとり槍投げて槍に歩み寄る   能村登四郎

閉じる