花(はな)

 俳句で「花」と言えば、桜の花を指すことになっている。ただし、これについては昔からいろいろ論争があった。芭蕉の伊賀上野の弟子服部土芳は、師の言葉を援用して「花といふは櫻のことながら、すべて春の花をいふ」(白冊子)と書いている。「花は桜」というのが第一義ではあるが、桜は春の花すべてを代表しているものと考え、「花」と言えば桜を頭に浮かべながらも、春の雰囲気を伝えてくれる「花」総体として捉えるべきだ、という意味であろう。

 とにかく桜は日本人と切っても切れない関係にあるようだ。中国で花王と言えば牡丹だが、日本の花の王はもちろん桜であり、国花とされている。

 芭蕉が渇仰してやまなかった西行は「ねがはくば花の下にて春死なんそのきさらぎのもち月のころ」と詠んだ。「きさらぎの望月」すなわち旧暦の2月15日は今の暦では3月下旬から4月初めということになり、ちょうど桜の季節、そして釈迦入滅の日でもある。この日に、満開の桜の下で死にたいと願っていた西行は、建久元年(1190年)2月16日に河内の弘川寺で入滅した。つまり1日生き過ぎてしまったのだが、世人は西行の希望を尊んで、1日繰り上げ2月15日を西行忌としている。

 日本一の富士山の神様も桜である。木花開耶媛という。天孫降臨で高千穂峰に降立った瓊々杵尊が鹿児島の吾田(加世田市)で出会い妻に娶った、大山津見命の娘である。本名は吾田鹿葦津姫と言ったのだが、まるで満開の桜のように美しいお姫さまだったので、「コノハナサクヤヒメ」という美称が捧げられ、以後この名前になった。とにかく古事記の時代から「木の花」と言えば、桜の花を指すくらい、日本人には親しまれた花だったのである。

 桜が盛大に咲き、しかも、はやばやと散ってしまうようなことがない年は稲の実りも良い、ということが昔は信じられていたようである。桜の咲く頃は、苗代に稲籾を蒔く時期であり、やがて始まる田植えのための田打ちにかかる時でもある。秋の実りを豊饒の桜の神に祈る気持があったのであろう。花見というものも、後年のどんちゃん騒ぎではなく、もっと敬虔な気持を込めたものであったのかも知れない。

 お花見というものはずいぶん昔から行われていたようである。嵯峨天皇の弘仁3年2月13日(812年4月1日)、宮中で花見の宴が催されたという記録が残されている(「日本後記」)。清少納言も「枕草子」の中で、「桜は、花びら大きに、葉の色こきが、枝はほそくて咲きたる」とその風情を讚えており、お花見に興じた様子がしのばれる。

 このように平安時代になると、万葉時代にもてはやされた梅に替って桜が盛んに歌に詠まれるようになった。「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(「古今集」巻一・在原業平)、「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」(「古今集」巻二・紀友則)。やがて、単に「花」と言えば桜を指すことという考えが定着していった。

 清少納言が桜を称賛するに際して、「花びら」の華麗さとともに「葉の色こきが」と緑の葉を挙げているのは、平安時代から江戸時代の桜が、花と葉がいっしょに出るヤマザクラの類であることを物語っている。いま日本列島をほぼ占領しているソメイヨシノは、葉が出る前に花だけが樹木全体を覆う。ヤマザクラにはそうした豪華さはないが、気品がある。花とほぼ同じ時期、あるいは花よりやや早く、紅をさしたような緑茶色の新葉を出し、やがて緑色が濃くなり、その中から白っぽい花びらが顔をのぞかせる。まさに本居宣長の詠んでいるように「敷島のやまと心をひと問はば朝日に匂ふ山桜花」である。

 日本にはヤマザクラをはじめ、オオヤマザクラ、ヒガンザクラ、カスミザクラ、オオシマザクラ、エドヒガンなど九種類の原種(野生種)があり、それらの自然交配、人工交配による雑種が数百種類ある。このうちヒガンザクラがその名の通り最も早く、春分の日前後に咲き出す。その後を追ってソメイヨシノが咲き、ヤマザクラやシダレザクラが咲き、最後に「楊貴妃」などの八重桜の花が開く。

 近ごろは人間がせっかちになったせいか、台湾や沖縄の緋寒桜(寒緋桜)と本州の桜を交配した早咲きの深紅色の桜が作られ、2月末には咲き始める。河津桜とか横浜緋寒桜などと呼ばれている品種がそれだが、これらの桜は色が毒々しくて気品に欠け、夜の浅草仲見世通りの造花の下を潜っているような感じがする。

 上野の山をはじめ、今日私たちが花見をする場所に咲いている桜は大半がソメイヨシノである。これは幕末頃に、植木屋がかたまっていた染井(巣鴨、駒込辺、現在の染井霊園付近)で偶然に発見された品種で、エドヒガンとオオシマザクラの交雑種と言われている。自然に生まれたものか、人工交配によって出来たものかはっきりしないが、葉が出るよりも先に花が一斉に咲き、木全体が花に覆われて、遠くからでもこんもりと円形の花の山に見える。

 大昔から「花は吉野」と言われていたから、この新品種の豪華絢爛たる桜も最初は「ヨシノザクラ」と命名されて苗木が売り出された。しかしこれでは本家の吉野山の桜(ヤマザクラ)と紛らわしいので、明治5年になって、生まれた場所を冠してソメイヨシノという正式名称が決まった。

 染井吉野はいかにも春爛漫という感じの桜だから、たちまち東京っ子の心を捉え大流行した。明治半ば頃には全国に広まって、今では桜と言えばほとんどの人がソメイヨシノを思い浮かべるまでになった。しかしソメイヨシノの欠点は短命なことで、4、50年で老樹になってしまい、100年もつのは稀である。

 「花」あるいは「桜」という季語から受ける感じは、第一にその見事な咲きぶり、そして散り際の美しさ、潔さであろう。満開の花は見る人の心を浮き立たせる。いかにも春たけなわを感じさせる。さらに老樹ともなれば、花の王たる貫録、風格がある。静かに、四囲を圧して咲き誇る、堂々とした姿を一つの理想像として詠むことも多い。

 一方、桜の開花期はとても短く、あっと言う間に散ってしまう。それを残念がる気持や、逆に潔いとして称揚する詠み方もある。しかし、この散り際が潔いということが、先の大戦末期にはとんでもない使われ方をして、「見事散りましょ国のため」などと歌われるようになり、あたら大勢の若者を無駄死にさせてしまった。そのせいか、今でも満開の桜を見ると怖いような気がするというお年寄りもいる。桜には何の罪もないのに、気の毒なことである。

 満開の花には、華やかさと同時に一抹のさびしさもある。薄墨を掃いたような桜が満開になると、その下はかえって暗い感じがつのる。そこに立つと、厳粛な、時としてぞっとするような感じに襲われたりもする。「花の陰」「花の奥」という季語にはそうした気分がこもっている。

 「花」の季語には、「花」とだけ詠むほかに、「花の雲」「花びら」「花の都」「花明り」「花便り」「花の陰」「花の奥」「花惜しむ」などたくさんある。さらに「桜」をはじめ「染井吉野」「山桜」「大島桜」「八重桜」など、桜の種類を言う季語群がある。あるいは、「初花」「落花」「残花」「桜蘂降る」というように咲き始めから、シベが落ちるまで、すべてが季語になっている。「花曇」「花冷」「花の雨」など、花時の気候に関する季語もある。もちろん、「花見」「夜桜」「桜狩」「花の宴」「花筵」「花篝」「花筏」「花見酒」「花疲れ」など、お花見に関する季語も多い。

 花は夏の時鳥、秋の月、冬の雪とともに、四季を代表する重要な季題とされて来た。ことに俳諧(連句)では花と月とは特別な存在で、それぞれ「定座」と称して、必ず花と月を詠むことになっている。これほど重要視され続けた「花」だけに、江戸時代から現代に至るまで、花の句は無数にある。

  花の雲鐘は上野か浅草か   松尾芭蕉
  一昨日はあの山越えつ花盛り   向井去来
  花にゆく老の歩みの遅くとも   高浜虚子
  花の月全島死するごとくなり   飯田蛇笏
  墓原をかくして花のさかりかな   久保田万太郎
  病み呆けてふと死を見たり花の昼   富田木歩
  花明しわが死の際は誰がゐむ   安住敦
  寝酒さがす三時花吹く風きこゆ   西垣脩
  花の間の空の青さを見てゐたる   古館曹人
  退庁の紅引き直す花夕べ   加藤和子

「桜」
  さまざまの事おもひ出す櫻かな   松尾芭蕉
  山守の冷飯寒きさくらかな   与謝蕪村
  海の中にさくら咲いたる日本かな  松根東洋城
  ゆさゆさと大枝ゆるる桜かな   村上鬼城
  風に落つ楊貴妃桜房のまま   杉田久女

「花見」「桜狩」「花筵」「夜桜」
  花見にとさす船遅し柳原   松尾芭蕉
  桜狩り奇特や日々に五里六里   松尾芭蕉
  うかうかと来ては花見の留守居かな   内藤丈草
  夜桜や美人天から下るとも   小林一茶
  業平の墓もたづねて桜狩   高野素十
  夜桜の一枝長き水の上   高野素十
  年寄の一つ年とる花見して   平畑静塔
  花筵往生際の話など   塚本忠
  花筵野党与党の村議ゐて   井村順子

閉じる