蛤(はまぐり)

 北海道南部から九州に至るまで、日本列島の海岸の至るところにいて、大昔から日本人に親しまれてきた二枚貝である。満潮になると海に没し、干潮になると砂浜になる潮間帯の、真水が入り交じる砂泥に住んでいる。殻はかなり分厚く表面はすべすべしていて、茶褐色や白色に筋目が入ったり、時として紫紺色を呈したり、複雑な色をしている。内側は真っ白で、かなり大きな舌(足)をもった肉厚の身が入っている。  冬の間は砂深く潜っており、暖かくなるにつれて浅い所まで出てくる。産卵期は夏だが、その前の陽暦三、四、五月の潮干狩りでは、浅蜊や潮吹き貝に交じって、蛤が時々見つかると子どもも大人も歓声を上げる。しかし、近ごろはどこの海岸も埋め立てやテトラポットの護岸工事などが進み、潮流が変ってしまったせいであろうか、それに加えて内湾の汚染がひどくなったためであろう、蛤はほとんど採れなくなってしまった。

 蛤は浅蜊などと違って、ことのほか環境汚染に敏感で、周囲が汚くなるとさっさと逃げ出してしまう。「一夜に三里を走る」などという俗説があるくらいで、半透明の粘液を出しながら砂浜を歩く。そんなわけで、昔の蛤の名産地であった東京湾ではほぼ絶滅し、私たちがいま口にしている蛤は多くが中国、韓国、北朝鮮あたりのものである。

 昔はその呼び名の通り浜栗とも書かれた。形が栗の実に似ているところから名付けられたものであろう。東京湾、伊勢湾、大阪湾などそれぞれが蛤の名産地と称し、それぞれ特産の蛤の味を自慢していた。東京では江戸川河口付近や房総半島沿岸でとれた蛤を剥き身にして葱と焼豆腐を合わせ味噌仕立てで煮た「蛤鍋」が江戸っ子に好まれた。大阪では住吉神社の酢蛤が有名だったし、三重県桑名の焼蛤、時雨蛤は今でも健在である。

 蛤は吸い物(潮汁)や、蒸し蛤も、酢の物も美味しいが、なんと言っても一番は焼蛤であろう。よくおこった炭火に金網を載せ、その上に大ぶりの蛤をのせる。しばらくするとじゅうじゅうと言い始め、蓋ががばっと開く、半生ぐらいの所でレモンをぎゅっと搾りかけ、醤油を一たらしして、火傷しないように注意しながら汁ごと啜る。ただし、焼く前に蝶番の所を切っておかないと、熱くなった途端に貝がそっくりかえり、旨い汁がみんなこぼれてしまう。一説によると、蛤にも裏表があって、それを見抜いて裏を下にして焼けばひっくり返らないということだが、素人にはどちらが裏か表かよく分からない。

 雛祭りや婚礼の膳には蛤の吸い物が付き物であった。蛤は二枚の貝殻がぴったりと合わさっており、他の貝とは決して合わすことができないというので、「二夫にまみえず」ということから、貞女のシンボルとされたのである。これも今となっては神話のようなもので、日本から蛤が姿を消して行くのと同じように、こうした謂われ因縁もどこかへ吹き飛んでしまったようである。

 この蛤の貝殻の特性を活かして、鎌倉室町時代には「貝合わせ」あるいは「貝覆い」という遊びが流行した。蛤の貝殻の内側に金蒔絵などをほどこし、和歌などを書きつけ、それを伏せて、ぴたりと合うものを見つけるという、トランプの「神経衰弱」に似た遊技である。これが明治初年ころまでは上流家庭に連綿とつたわり、婚礼調度品に加えられていた。

 やはり「違う貝とは絶対に合わない」ということで、大昔は蛤の貝殻を契約の印しとして取り交わすことも行われていたという。碁石の白石も蛤だが、これは日向(宮崎県)沖の外洋に棲むチョウセンハマグリという大型の蛤から取ったものが最上とされている。また蛤の貝殻は食べられた後も浅蜊や蜆のようにゴミにはされず、薬の容器として再利用された。戦前から戦後もかなり長い間、民間薬としてオデキの薬として馴染み深かった「蛸の吸い出し」や、「ガマの油」などは、大概蛤の貝殻に入って売られていた。

 蜃気楼というものがある。海上に楼閣が現れたりする現象だが、「蜃」というのは大きな蛤のことである。大昔の中国人は、この不可思議な現象は大蛤が吐く気によって生ずるものと考えたのである。蛤は食われたり、夫婦和合の象徴にされたり、時には幻想的な自然現象の演出家にされたり、忙しいことである。これも蛤が古くから人間の身近にあって親しまれてきたものだからであろう。

  蛤の荷よりこぼるるうしほかな   正岡子規
  汁椀に大蛤の一つかな   内藤鳴雪
  舌焼いて焼蛤と申すべき   高浜虚子
  からからと蛤量る音すなり   岡本松浜
  蛤を膝に鳴かせて夜の汽車   石塚友二
  帆の立ちしごとく蛤焼かれけり   阿波野青畝
  蛤を採る腰波のたゝみ来る   川田朴子
  夜遊の蛤汁にはじまれり   野本京
  ぱと開きて蛤なにか言ひさうな   中村亀代

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