田楽(でんがく)

 短冊形に切った豆腐を先が二股になった竹串に刺して火に炙り、木の芽味噌を塗り付けた食べ物である。木の芽田楽とも言う。コンニャクや蕗の薹、里芋などを同じようにして食べることもあり、これも田楽と称している。一年中あるのだが、木の芽が生え初める頃、それを刻み込んだ味噌を塗ったものが一番美味しく、昔から春の食べ物とされており、晩春の季語になった。

 豆腐の味噌焼きに何故「でんがく」などという名前が付いたかと言えば、これはその形状から来ている。平安時代から室町時代まで、田植時に笛や鼓を打ち鳴らし、長い竹竿や丸木に乗って面白おかしく踊りを踊って田の神を喜ばせ、豊作を祈る田楽舞というものがあった。戦国時代から江戸時代になるとその行事は廃れ、プロの能楽師や田楽舞の法師が寺社に奉納する行事になった。竹串に刺した豆腐の形が、帷子(かたびら)を着て高足(こうそく)という竹馬のようなものに乗って踊る田楽舞の様子に似ているので、この食べ物を田楽豆腐と言うようになり、いつの間にか豆腐の文字が消えてただ「でんがく」と言うようになった。

 こうした名前の由来からして、この食べ物が非常に古くからあったことがわかる。今では本元の田楽舞を知る人はあまりいないが、食べ物の田楽だけは脈々と生き永らえている。

 最近、どのコンビニも競争でレジ回りに鍋をしつらえ、若い人たちにも人気の「おでん」を売っているが、これも「田楽」が元祖である。

 幕末から明治にかけて世の中が騒然となった時代、串に刺した豆腐やコンニャクに味噌をつけていちいち火で炙るというような悠長なことはしてはいられないということになった。それに代って、串に刺した具を味噌や醤油仕立ての煮汁の中にいきなり浸けて煮込む「煮込み田楽」というものが考え出され、これを商う屋台が江戸の下町に続々と出現した。

 「煮込み田楽」は発想からして乱暴で、握り鮨と同じく、江戸湾の埋め立て工事や建築作業に従事する人足や職人目当ての、ファストフードの元祖のような食べ物である。下品な食べ物として、はじめのうちは武士階級はもちろん、まともな町人からは相手にされなかった。

 しかし、料理とも言えないような料理であるとしても、煮込んでいるうちにいろいろな食材から出る味が渾然一体となって、独特の旨味が出て来る。これが大受けし、だんだんと一般町民にも広まっていった。そうこうしているうちに、いつの間にか「煮込み」という言葉が取れてしまい、これも「でんがく」と呼ばれるようになった。さらに頭に「お」がついて、口調の関係から尻尾の「がく」が取れて「おでん」になった。

 東西を行き来する幕末維新の浪士や商人にもおでんの愛好者が増えたのであろう、これが関西に伝わり「関東煮」と呼ばれて流行した。関西風に改良され、薄口醤油仕立ての上品な食べ物になって人気を呼び、大阪の高級料亭には「お座敷おでん」などが登場した。この上品になったおでんが東京に逆輸入され、明治末期には山の手の住人にも親しまれる料理に昇格し、やがて全国津々浦々に広まった。

 この「おでん」は煮込み鍋のイメージが強いせいか、春の田楽に対して、冬の季語とされている。

 おでん人気が高まるにつれ、本家本元の田楽は影が薄くなったものの生き永らえ、今日でも木の芽時には料亭などに顔を出す。芭蕉の生れ故郷伊賀上野の町には現在も伝統的な田楽を商う料亭が数軒残っており、昔ながらの朱塗りの角盆にほどよく炙られた豆腐田楽が盛られて供される。京都もさすがのもので、旨い田楽を出す店がかなりある。東京にも、リバイバルブームというのであろうか、近ごろはおやと思うような店に田楽がある。

 とにかく素朴な料理だが、季節を感じる野趣豊かな食べ物である。「木の芽田楽」「田楽豆腐」「田楽焼」とも詠まれる。

  田楽と初子とほかに望みなし   高浜虚子
  田楽は野点の娘らも串もて喰ぶ   富安風生
  田楽と白く抜いたり赤暖簾   松本たかし
  田楽に舌焼く宵のシュトラウス   石田波郷
  田楽や花の過ぎたる嵐山   景山筍吉
  田楽に酔うてさびしき男かな   三橋鷹女
  城小さく田楽の串長かりし   森田峠
  田楽の串の太さも肥後の国   竜口幸子
  ご城下の豆腐田楽二本差し   田部黙蛙
  田楽の匂ひが先に届きけり   山本圭子

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