蝶は昆虫の中で最も目立つ存在ではなかろうか。美しい翅を広げ、ひらひら舞う姿は、よくもまあこれほど美しいものをこの世に現出せしめたのかと、不信心者でさえ造化の神の存在を感じてしまうほどである。また出現する時期がいい。蝶々は、菜の花をはじめ、さまざまな花が咲き始める春に出て来るということで得をしている。 その印象が非常に鮮やかなので、蝶は春の季語になっているが、実際には真冬を除いて年中飛んでいる。蝶が精力旺盛に飛び回り草花に卵を産みつけるのは晩春から夏のことであり、芥川龍之介は「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」と詠んでいる。確かに蝶が活発に繁殖活動を繰り広げるのは夏なのであろうが、現実には夏の蝶はむしろ暑苦しく物憂げな感じすらして、夕立の後などは別として、さしたる感興を催さない。やはり蝶は春のものであろう。
蝶は鱗翅目に分類される昆虫で、全世界に約一万八千種、日本には約二百五十種いるという。関東地方で真っ先に現れるのは三月のモンシロチョウ、モンキチョウで、四月になると黄色と黒の縞目が美しい大型の揚羽蝶が飛び始める。春になって初めて見る蝶を「初蝶」と言い、俳人はこれを大いにもてはやし、独立の季語に立てている。
二本の触覚と複眼を持ち、管状の口器をゼンマイのように丸めており、花に止まるとそれを伸ばして蜜を吸う。幼虫時代は芋虫とか毛虫とか言われて嫌われる存在であるところが面白い。
同じ鱗翅目でも、蛾となるとまるで人気がない。夜になって灯火めがけてうるさく飛んで来たりするものだから、火取蛾、夜盗蛾などと、まるで犯罪人扱いである。しかし昆虫世界では蛾の方が蝶より圧倒的多数派で、全世界には五、六万種、日本にもざっと五千種いると言われている。
蝶は春の訪れを告げる優雅な虫、蛾はうるさくて迷惑な存在とみなされているが、分類学上、蝶と蛾の明確な区別はまだついていないらしい。一般的には、蝶は昼間行動し、静止した時には二枚の翅を垂直に閉じ、触覚は棒状で先端が膨らんでいるとされる。これに対して、蛾は夜間に行動し、静止状態で翅は開いたままで、触覚はぎざぎざのある櫛状あるいは枝状と言われる。
しかし、蝶のくせに静止状態で翅を開きっぱなしのものがあるし、昼間飛んでいる蛾もたくさんいる。蝶よりも美しい蛾はいくらでもいるという具合に、明確に差別のつけようがない。正確度を第一義とする学問の世界でも、あいまいな部分がまだ残っているようである。ちなみに俳句では蛾は夏の季語になっている。
蝶は昔は「てふ」あるいは「てふてふ」と書かれた。春風に乗って飛んでいる様を表現したものなのであろう。俳句ではそういう気分を尊んで、蝶に託して春ののびやかな風情を詠んだものが多い。
世の中よてふてふとまれかくもあれ 西山宗因
蝶の飛ぶばかり野中の日影かな 松尾芭蕉
釣鐘にとまりて眠る胡蝶哉 与謝蕪村
蝶とぶやあらひあげたる流しもと 加舎白雄
高々と蝶こゆる谷の深さかな 原石鼎
方丈の大庇より春の蝶 高野素十
初蝶やわが三十の袖袂 石田波郷
蝶の空七堂伽藍さかしまに 川端茅舎
黒き蝶ゴッホの耳を殺ぎに来る 角川春樹
初蝶を見しより外出心かな 五十嵐八重子