公園にも小学校の校庭の片隅にも付き物のブランコ。もちろん1年中ぶら下がっている。それが何故「春の季語」とされているのだろうか。これは古代中国の習俗から来たものらしい。
もともとブランコという遊戯は中国北方、あるいはインドあたりの遊戯だったものが、紀元前の周時代に中国に伝わったらしい。もとより王侯貴族の館の庭園に作られ、上流階級の遊具として定着した。
古代中国には「寒食」という習慣があった。冬至から105日目に当る日、つまり今のカレンダーで言えば4月5日か6日頃は風が吹き荒れる日として、宮廷ではその前後数日間、火を焚くことを禁じた。その期間は、ちょうど今日の日本の正月にお節料理を作って三が日はそれを食べてなるべく煮炊きしないのと同じような風習があり、それを「寒食」と言った。
宮廷人たちは寒食の日はそうした料理を食べながら、御殿にこもり、歌舞音曲を楽しんだ。宮殿の庭にはブランコを吊り下げ、宮女がそれに乗り、裳裾をひるがえしながら高く舞った。表向きは「火の用心」だが、実態は本格的な春を寿ぎ楽しむという、いわばお花見気分のお祭りだったのであろう。
唐の玄宗皇帝は楊貴妃をはじめとした美女に囲まれ、ブランコ遊びをするのが大好きだったらしい。大きくこいで空中高く舞い上がると、まるで仙人になったような気分だということからブランコに「半仙戯」という名前を与えたという話も伝わっている。
日本にいつ伝えられたのかはっきりしないが、高い所から吊り下がった綱につかまりぶらぶら揺するというのは類人猿にも見られる遊びだから、もしかしたら日本にも自然発生的に存在した遊戯かも知れない。ただ、飛鳥奈良時代、中国の文物を取入れるのに熱心だった頃に、中国の宮廷文化としての「ブランコ・半仙戯」があらためて輸入され定着したのではないか。
昔は「ゆさはり」「ゆさぶり」「ふらここ」「ふらんど」などと呼ばれ、詩歌では中国語の「鞦韆(しゅうせん)」をそのまま用いて詠まれていた。「ふらここ」から「ぶらんこ」が生れたのだろうが、いずれも「ふらふら」「ぶらぶら」から出たものに違いない。ポルトガル語の「バランコ」から「ぶらんこ」になったという説もあるが、ポルトガルと接触が生じた織豊時代よりずっと前から現物があるのだから、この音韻の相似は偶然の一致のように思う。
とにかくブランコは日本にもかなり早くからあったはずなのに、和歌にはほとんど登場しない。それが俳諧の時代になって春の季語として盛んに取り上げられるようになった。江戸中期以降、漢詩趣味が庶民階級にまで広がり、蘇軾(蘇東坡)の「春夜」という詩があまねく広まったことがブランコを春の季語とする決定的要因となったらしい。その詩を水牛が戯れにつけた訳と共に掲げておこう。
春夜 蘇軾
春宵一刻値千金 一刻千金春の宵
花有清香月有陰 花の香りに月おぼろ
歌管楼台声細細 かそけき歌声笛の音
鞦韆院落夜沈沈 庭にぶらんこぶうらぶら
この艶やかでロマンチックな詩が江戸の文人俳人にもてはやされ、蕪村の友人の炭太祇(1709─1771)は「ふらこゝの会釈こぼるゝや高みより」と詠んでいる。中空に舞い上がった美女の笑顔が天からこぼれて来る光景であろうか。京都の遊廓島原に住んだ太祇の面目躍如たる句である。
ブランコは何も春に限ったものではないというのは理屈で、こうした歴史的背景はさておいても、やはり春の気分にぴったり来る。暖かくなって子供達が元気に表に飛び出し、公園のブランコを奪い合う。男の子は目一杯漕ぎ揚げて柱がきしむほどに天高く舞う。女の子たちは「そんなに押さないでーっ」などと騒ぎながら、嬉しそうに揺さぶり合う。傍らではお母さんや老人同士がブランコに腰掛け、ゆらゆらさせながらおしゃべりを楽しんでいる。春の昼下がりののんびりした光景である。
ふらここや花を洩れくるわらひ声 三宅嘯山
ふらんどにすり違ひけりむらつばめ 小林一茶
鞦韆にこぼれて見ゆる胸乳かな 松瀬青々
鞦韆や春の山彦ほしいまゝ 水原秋櫻子
鞦韆に腰かけて読む手紙かな 星野立子
鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし 三橋鷹女
ぶらんこや山蹴りあげて海へひく 池津海彦
ブランコの子に帰らうと犬が啼く 菅原独去
ぶらんこを今度のる子が押してゐる 江本英一
ぶらんこに乗る一歳の自己主張 柴田三重子