日本の鹿(ニホンジカ)は北海道から沖縄まで列島各地に棲息する。奈良公園、広島の厳島など観光地にもたくさんいて、人間に身近な動物である。体長1・5㍍ほどだが、北に住むほど体が大きいという。角は牡だけに生え、毎年冬に生えかわる。
交尾期の秋になると、牡鹿は「ピー」という長く鋭い声で、雌を呼ぶ。この声は遠くから聞くと哀調を帯びており、古来、和歌では秋の題として詠まれてきた。鹿笛は猟師が鹿を誘うために吹く笛。牡鹿の声に似ているという。
寝もせいで我はなぜ啼く夜の鹿 河合智月
淋しさや山は猶更(なおさら)鹿の声 天野桃隣
回廊に潮満ち来れば鹿ぞ啼く 山口素堂
(注)厳島で。
ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿 松尾芭蕉
(注)この句の場合、尻声は鳴き声の終わり。通常は言葉の終わり、言葉尻のこと。
武蔵野や一寸ほどな鹿の声 松尾芭蕉
動かすは鹿や角磨ぐ松の下 杉山杉風
夜嵐よ尻吹き送れ峰の鹿 広瀬惟然
臥処(ふしど)かや小萩に洩るる鹿の角 向井去来
満潮の巌に立つや鹿の声 向井去来
夜あらしや空に吹きとる鹿の声 向井去来
北嵯峨や町を打越す鹿の声 内藤丈草
血をこぼす手負の鹿や薄原 森川許六
食堂(じきどう)の鐘を聞(き)知る男鹿かな 森川許六
(注)鹿は寺院の食堂の鐘(食事の合図)を知り、何かにありつけるかと寄って来る。
きらきらとぬれたる鹿に夕日かな 森川許六
小雨たる絲より細し鹿の声 森川許六
朝鹿の身振い高し堂の縁 森川許六
小男鹿のきつと(きっと)ねぢ向く峠哉 岩田涼菟
鹿の音の呼出す杉の嵐かな 岩田涼菟
(訳)鹿の声が聞え、杉林から嵐が起った。鳴き声が風を呼んだかのようだ。
鹿の目の朝日に向かふ高根かな 河野李由
暮の山遠きを鹿の姿かな 宝井其角
小男鹿や細き声より此(この)流れ 宝井其角
大原女や紅葉でたたく鹿の尻 宝井其角
富士の野や鹿伏す床のかたさがり 野沢凡兆
或僧の細き迷いや鹿の声 立花牧童
山川やたゆまず渡る鹿の妻 立花北枝
尻斗(ばか)り照られて立つや秋の鹿 志太野坡
所々淋しうするや鹿の声 志太野坡
菜を拾ふ鹿あはれなり市の秋 志太野坡
里を見に出ては小萩に小鹿かな りん女
鹿の音や竹を隔てて川伝ひ 各務支考
月代に吃(きつ)と向ふや鹿の胸 直江木導
(注)月代は月が出る前のほの明るい空。月白。
淋しさや尻から見たる鹿の形(なり) 直江木導
風筋を角に受けたる小鹿かな 直江木導
杉と杉木伝ふ声や夜の鹿 直江木導
嵯峨小倉落合うて鳴く小鹿かな 直江木導
(注)嵯峨も小倉も京都右京区の地名。和歌や俳句に縁が深い。
松風にふはと乗せたり鹿の声 槐諷竹
明星や尾上に消ゆる鹿の声 菅沼曲翠
振り上げて芒(すすき)に立つや鹿の角 奥西野明
弓捨る案山子もあらん鹿の声 横井也有
夕暮を引あつめてぞ鹿の声 加賀千代女
しののめのあちら向きなり鹿の声 加賀千代女
鹿なくや宵月落つる山低し 江森月居
鹿の音(ね)やある夜は川を越えて来る 白井鳥酔
聞きはづす声に続くや鹿の声 炭太祇
三度(みたび)啼いて聞えずなりぬ雨の鹿 与謝蕪村
小男鹿や僧都が軒も細柱 与謝蕪村
菜畑の霜夜は早し鹿の声 与謝蕪村
鹿啼て柞(ははそ)の梢荒れにけり 与謝蕪村
(注)柞はコナラ、クヌギ、ミズナラなど、ブナ科落葉高木の総称。
山守の月夜野守の霜夜鹿の声 与謝蕪村
連句して御室(みむろ)に鹿を聞く夜かな 与謝蕪村
(注)御室は高貴な人の家。
窓の灯を山へな見せそ鹿の声 与謝蕪村
(注)山へな見せそは、山へ見せるな。光を見ると鹿が逃げるから、の意。
小男鹿や僧都が庵も細柱 与謝蕪村
鹿の音の嵯峨へ下りたる夜寒かな 大島蓼太
(注)夜寒の項にも載せている。
こがれ行く高み低みや鹿の声 大島蓼太
啼止て鹿二つ行く谷間かな 高桑闌更
山里や軒に来て啼く夜半の鹿 高桑闌更
耳立(て)て啼音に向ふ男鹿かな 高桑闌更
見廻して又啼きにけり月の鹿 高桑闌更
啼き絶(え)て鹿のつくばふ夜明かな 高桑闌更
岩端(はな)にいとど憔(やつ)れて雨の鹿 高桑闌更
数十疋(ひき)峰越えゆくや昼の鹿 高桑闌更
小男鹿のよび下る月の尾上かな 高桑闌更
身は痩せて草噛む鹿の思ひかな 黒柳召波
濡色に起き行く鹿や草の雨 黒柳召波
夜もすがら啼かで夜明の鹿の声 三浦樗良
朝鹿や樫の林を出づるこゑ 三浦樗良
山鳥の騒ぐは鹿の渡るかも 加藤暁台
鹿の声尾花が末にかかるなり 加藤暁台
こがれてや浅瀬見てゐる鹿の妻 加藤暁台
別れ鹿霜の笹山渡るなり 加藤暁台
濡鹿に有明の月の光かな 加藤暁台
わかれ鹿霜の笹山わたるなり 加藤暁台
あなうあなう射よげに見ゆる萩の鹿 加藤暁台
(注)あなうは、あな憂。ああ辛い、の意味。射よげは、射やすそうに。
鹿追ひの声残りけり山かづら 蝶夢
行(く)鹿の萩にうたるる野風かな 加舎白雄
鹿の跡見よや葛葉の裏面 加舎白雄
牛の子の鹿見て逃る月夜かな 加舎白雄
閑に堪えて酒酌めば月鹿も啼く 加舎白雄
追るるは知りつも啼(く)か畑の鹿 加舎白雄
花紅葉江戸に鹿啼く山もがな 加舎白雄
(訳)江戸には桜も紅葉もあるが、鹿の啼く山がない。あったらいいのだが。
暁(あけ)方に聞し鹿かも蹄(つめ)の跡 加舎白雄
寝時分や戸に吹付ける鹿の声 松岡青蘿
角の上に暁の月や鹿の声 松岡青蘿
鹿の声高根の星にさゆるなり 松岡青蘿
月と成り闇となりつつ鹿の恋 髙井几董
遠鹿や枕にちかき山おろし 高井几董
三夜さ聞く同じ所や鹿の声 夏目成美
鹿聞けば木の葉のやうな我身なり 夏目成美
鹿老て妻無しと啼く夜もあらん 井上士朗
水音と鹿に又逢ふ山路かな 岩間乙二
住む鹿の菅(すげ)は秣(まぐさ)に刈られけり 岩間乙二
(訳)鹿の住みかの菅は、牛馬などの秣にするために刈られてしまった。
つつぽりと立つて声なし暮の鹿 江森月居
(注)つっぽりは、しょんぼりしている様子。
夜の声しかより遠きものはあらじ 巒寥松
夕山を下に並べて鹿の声 成田蒼虬
日のさして一声啼くや谷の鹿 成田蒼虬
磯山を日のさす鹿の伝ひけり 田川鳳朗
小男鹿の片膝立(て)て雲や思ふ 小林一茶
一の湯の錠の下りけり鹿の鳴く 小林一茶
丘の辺や人に頼りて鹿の鳴く 小林一茶
おれが方へ尻つんむけて鹿の鳴く 小林一茶
足枕手枕鹿のむつまじや 小林一茶
爰(ここ)かしこ渡る声なり月の鹿 桜井梅室
道もなき茅原に立てり明(け)の鹿 桜井梅室
山端(はな)へ出ては戻るや雨の鹿 桜井梅室
月は今端山がくれや鹿の声 坂上浪兄
水も寝る夜頃を鹿の遠音かな 藤井藍庭
鹿も居らず樵夫(きこり)下り来る手向山 正岡子規
秋ふかし枯木にまじる鹿の脚 松瀬青々
芋の葉をごそつかせ去る鹿ならむ 夏目漱石
蕎麦太きもてなし振りや鹿の声 夏目漱石
鹿の声猿沢わたり小提燈 水落露石
老いと見ゆる鹿が鳴きけりまのあたり 河東碧梧桐
立つ鹿の顔が見えけり常夜灯 大谷繞石
鹿聞いて奈良を寒がる女かな 金森匏瓜
鹿二つ立ちて淡しや月の丘 原石鼎
小男鹿や何におどろく月の前 吉田冬葉