麻や木綿などの着物は水で洗うと硬くなるので、木槌や木の棒で打って柔らかくする作業が「砧」。もともとは衣を打つ板のことで、衣板(きぬいた)と呼ばれ、後に作業を意味するようになる。主として女性の夜なべ仕事で、詩歌では秋の夜の寂しさを表現する材料になっていた。砧はもはや「絶滅季語」と言えるが、各句から江戸時代や明治早期の生活ぶりをうかがうことができる。
砧は「碪」とも書くが、本句集では「砧」に統一した。
むら打ちに居ねむりを知る砧かな 安原貞室
きぬうつは初雁のわたり拍子かな 北村季吟
泊り人を寝せて軒並砧かな 天野桃隣
砧打(ち)て我に聞かせよや坊が妻 松尾芭蕉
(注)吉野山の宿坊に泊まった時の句。宿坊の妻よ、心に響く砧の音を聞かせてくれ。
声澄みて北斗に響く砧かな 松尾芭蕉
猿引は猿の小袖を砧かな 松尾芭蕉
(注)猿引は、猿廻し。猿に着せる小袖を叩いている。
燈を細め寝つけば響く砧かな 杉山杉風
煎じ茶の薄くなりたる砧かな 山本荷兮
砧にも打たれぬ袖の哀れなり 斎部路通
(注)路通は放浪の俳人。着たきりで砧に打たれない自分の衣を哀れに思っている。
浅茅生(あさぢふ)の砧に躍る狐かな 池西言水
三隅つる蚊屋も侘しき砧かな 池西言水
(注)蚊屋は四隅を吊るものだが、一隅は吊らない。その空いた場所で砧を打っている。
僧正のいもとの小屋のきぬたかな 江左尚白
娘より嫁の音よわき砧かな 向井去来
乗掛の眠(り)を覚す砧かな 向井去来
(注)乗掛は、乗掛馬。荷物や人を運んでいた。
いねかしとおもふ咄(はなし)の砧かな 斯波園女
(注)いねかしは、寝(いね)かし。眠りなさいよ、など意味を強める用法。
衣うつ音や酒屋に酒売らず 越智越人
燈明の灯をかき立(て)て砧かな 森川許六
惣門は鎖(かぎ)のさされてきぬたかな 森川許六
寝入かね虫歯に響く砧かな 岩田涼菟
聞きありく(歩く)五条あたりの砧かな 岩田涼菟
中の間に寝ぬ子幾人(いくたり)小夜砧 宝井其角
衣打つ京へは遠き寝覚かな 上島鬼貫
思い余り恋ふる名を打つ砧かな 上島鬼貫
(訳)恋する女。砧を打ちながら思い余り、一打ち一打ちに男の名を込める。
母の目の明かぬほど打つ砧哉 志田野坡
(訳)年老いた母親が眠っている。母が目覚めぬよう手加減し、砧を打っている。
旅衆のやすんで居間の砧かな 斯波園女
衣うつ所へ旅の戻りかな 杉田旦藁
三日月の藪に道ある砧かな 万声
淋しさに来れば母屋も砧かな 孤舟
眠りつつうつつにつよき砧かな 七里
独り住む賀田の藁屋の砧かな 榎並舎羅
(注)舎羅は各地を行脚した人。賀田は三重県尾鷲市の賀田町(元賀田村)か。
山寺で聞けばひだるき砧かな 竹内十丈
(注)ひだるきは「腹が減る」。
尼寺の鉦(かね)から続く砧かな 横井也有
いさかひの隣もあるに砧かな 横井也有
子は爺が膝に泣せて砧かな 横井也有
音添うて雨にしづまる砧かな 加賀千代女
寝よといふ寝覚の夫(つま)や小夜砧 炭太祇
川留めの瀬の鳴る音や小夜砧 炭太祇
泊り居て砧打つなり尼の友 炭太祇
幾浦の砧や聞きてかかり船 炭太祇
(訳)この浦に船が停泊した。いくつもの浦々で砧を聞いてきたのだろう。
松風のあらく聞ゆる砧かな 溝口素丸
やがて着るものの淋しき砧かな 有井諸九尼
遠近(おちこち)をちこちと打つきぬた哉 与謝蕪村
(注)上五を四音にし、「おちこち、おちこち」と読む。砧の音を表す擬音と言えよう。
憂き我に砧うて今は又止みね 与謝蕪村
(訳)憂き思いの私は砧を聞きたいのだが、聞えてくると侘しくて、止めて欲しいと思う。
小路行けば近く聞ゆる砧かな 与謝蕪村
このふた日砧聞えぬ隣かな 与謝蕪村
霧深き広野に千々の砧かな 与謝蕪村
貴人(あてびと)の岡に立ち聞く砧かな 与謝蕪村
旅人に我家知らるる砧かな 与謝蕪村
砧聞きに月の吉野に入る身かな 与謝蕪村
比叡にかよふ麓の家の砧かな 与謝蕪村
母のきぬたつま(妻)持つべしとおもひけり 大伴大江丸
薄月や水行く末の小夜砧 高桑闌更
松風の砧幽(かす)かに谷の里 高桑闌更
浪高き夜や衣うつ蜑(あま)が軒 高桑闌更
吹きすれる竹の奥なる小夜砧 高桑闌更
相住むや砧に向ふ比丘(びく)比丘尼 黒柳召波
山姥(うば)と顔見合して砧かな 黒柳召波
夢ゆるくうつつせはしき砧かな 吉分大魯
(訳)浅い眠りの夢の中、現実の砧の音がせわしく聞えてくる。
砧打ちてつれなき人を責るかな 加藤暁台
うつらうつら月見つつあれば砧打つ 加藤暁台
山姥と見し人消えて遠砧 加藤暁台
衣うつ音や風呂たく日の明り 蝶夢
人や住む桃の林の小夜砧 加舎白雄
相撲取も聞(き)居る宿の砧かな 加舎白雄
しるしらぬ里なつかしや小夜(さよ)砧 加舎白雄
(訳)夜に砧を聞くと、知る知らぬにかかわらず、村里はみな懐かしく思える。
ともし火に風うちつけるきぬたかな 松岡青蘿
衣うつ田舎の果ての小傾城(けいせい) 髙井几董
行(く)船に遠近(おちこち)かはる砧かな 髙井几董
人妻の隣羨(うらや)む砧かな 髙井几董
しづまりし女夫(めおと)喧嘩や小夜砧 高井几董
幾度か砧打ち止む余所(よそ)心 髙井几董
仁和寺や門の前なる遠砧 髙井几董
小松吹く伊賀は砧の夕(べ)かな 井上士朗
砧更けて月は葎(むぐら)に隠れたり 夏目成美
手に顔を乗せて聞くなり遠砧 遠藤曰人
小夜砧そこらあたりは山ばかり 成田蒼虬
日中にどたりばたりと砧哉 小林一茶
青天の真昼中のきぬたかな 小林一茶
古郷や母の砧の弱りやう 小林一茶
継(まま)ツ子は砧に馴れて寝たりけり 小林一茶
ちとばかりおれに打たせよ小夜砧 小林一茶
行灯を松につるして小夜砧 小林一茶
漁のなき夜汐と見えて砧哉 桜井梅室
行きゆけば左右になるや灯と砧 桜井梅室
(訳)遠くに見えた灯、遠くに聞えた砧。近づけば道の両側に分れて行く。
雇い女(め)の出直して来て砧かな 桜井梅室
灯の一つ見えて砧の聞こえけり 上田聴秋
小博奕に負けて戻れば砧かな 正岡子規
砧打てばほろほろと星のこぼれける 正岡子規
聞かばやと思ふ砧を打ち出しぬ 夏目漱石
夜咄の夫(つま)呼び戻す砧かな 藤野古白
手を止めてものうち語る砧かな 高浜虚子
月の雲しどろの砧打ちもやめず 高浜虚子
(注)しどろは、乱れた様子。
山のかひに砧の月を見出せし 高浜虚子
(注)かひは、峡(かい)。山と山の間の狭いところ。
僧と仰ぐ山門の月遠砧 大谷繞石
雨は軒に砧は遠く聞こゆなり 牧野望東
虚無僧をとめて月夜や砧打つ 金森匏瓜
峰越(おごし)衆に火貸すなかばも打つ砧 原石鼎
(注)峰越衆は、山越えをしていく人。
うきことを身一つに泣く砧かな 高橋淡路女
砧打つ臼の上なる灯(ともし)かな 吉野左衛門
納屋にあるもの砧などみな親し 松本たかし
砧打二人となりし話声 日野草城