蚊、蚊柱(かばしら)、薮蚊

 蚊は近世以前の和歌の対象にならなかったが、江戸時代には俳句の題材として多く詠まれるようになる。江戸から昭和の初期までは、住居の条件や殺虫剤(蚊遣)の効果も現在とは違っていて、蚊に刺される(「食われる」とも言った)のは、日常的なことだった。人々はそれだけ切実に蚊と対していた、といえるだろう。

 夏の生活に欠かせなかった蚊張(かや)は、歳時記では通常、『生活』の項に分類されているが、この句集では「蚊」の句の下に「蚊張」(蚊遣り、蚊遣火も)の項を設けた。

蚊や人を夜は食らへども昼見えず   岸本調和
わが宿は蚊の小さきを馳走なり   松尾芭蕉
(注)滞在中の幻住庵に人が訪れた際の句。
子やなかん(泣かん)その子の母も蚊の喰はん   松倉嵐闌
蚊の声も人にそばゆる川辺かな   斎部路通
(注)そばゆは「戯ゆ」。ふざける。
ゆふべゆふべ地蔵にすだく薮蚊かな   池西言水
群かへる蚊のかたまりややまかづら   池西言水
山里の蚊は昼中にくらひけり   向井去来
限りなや蚊までもそだつ海の上   小西来山
こころよやけふの湯あみに蚊が逃げる   小西来山
蚊の声や太鼓櫓(やぐら)のくづれ口   森川許六
蚊を打つや枕にしたる本の重(かさ)   宝井其角
蚊柱に夢の浮橋かかるなり   宝井其角
烏ゆく蚊はいづくより昏(くれ)の声   宝井其角
血をわけしものと思はず蚊の憎さ   内藤丈草
(注)江戸時代は有名な句だったが、今日の評価は低い。
あまた蚊の血にふくれ居る座禅かな   炭太祇
打ちし蚊のひしとこたへぬたなごころ   炭太祇
うは(上)風に蚊の流れゆく野河かな   与謝蕪村
蚊の声す忍冬(にんどう)の花の散るたびに   与謝蕪村
(注)忍冬はすいかずら。花が散ると蚊の声に気付く、という微妙な感覚を詠む。
古井戸や蚊に飛ぶ魚の音闇(くら)し   与謝蕪村
昼を蚊ののがれてとまる徳利哉   与謝蕪村
あけぼのや窓のあらしに蚊のみだれ   勝見二柳
己が世をいかに昼の蚊夜の蝿   勝見二柳
暁(あけ)の蚊の落ちかさなれり僧の膝   高桑闌更
蚊の声や昼はもたれし壁の隅   高桑闌更
植込の蚊に罵(ののし)れる女かな   黒柳召波
蚊の声の目口を過るうきよ哉   黒柳召波
うき人に蚊の口見せる腕(かいな)かな   黒柳召波
蚊ばしらや棗(なつめ)の花のちるあたり   加藤暁台
蚊の声の夕べに雲を起こしけり   加藤暁台
蚊の声もまばらに広き座敷かな   蝶夢
我にあまる罪や妻子を蚊の食(くら)ふ   吉分太魯
(注)太魯は放浪の人。妻子を連れての旅中吟だという。
蚊遣して師の坊を待つ端居かな   吉分太魯
竹切りて蚊の声遠き夕べかな   加舎白雄
蚊の白く柳飛ぶ月の船路かな   宮紫暁
蚊帳を出て見れば故郷でなかりけり   遠藤曰人
昼の蚊やだまりこくつて後ろかな   小林一茶
釣鐘の中よりわんと鳴く蚊哉   小林一茶
一つ二つから蚊柱となりにけり   小林一茶
通し給へ蚊蝿のごとき僧一人   小林一茶
(注)僧は一茶自身のこと。
夕空や蚊が鳴きだしてうつくしき   小林一茶
蚊の声や行燈(あんどん)つつむ飯けぶり   小林一茶
蚊の中へおつ転(が)しておく子かな   小林一茶
宵越しの豆麩明りになく蚊かな   小林一茶
昼の蚊やだまりこくつて後から   小林一茶
蚊の声やずらり並んで留守長屋   小林一茶
蚊柱の穴から見ゆる都かな   小林一茶
柱事などして遊ぶ藪蚊かな   小林一茶
閑静をほめて昼蚊にさされけり   桜井梅室
昼の蚊や机の下のかくし酒   桜井梅室
蚊柱も立つや入り江のかかり船   大原其戎
蚊柱や吹きおろされてまたあがる   村上鬼城
叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな   夏目漱石
蚊柱や名月繊(ほそ)き牛の小屋   幸田露伴
蚊柱に救世軍の太鼓かな 巌谷小波
藍がめにひそみたる蚊の染まりつつ   高浜虚子
蚊柱を見てゐる中(うち)に月夜かな   永井荷風
闇の底に沈み行く心鳴く蚊かな   臼田亜浪
すばらしい乳房だ蚊が居る   尾崎放哉
頬の蚊の鳴く音をかへて飛びにけり   宮部寸七翁
咳怖れてもの云ひうとし蚊の出初む   富田木歩
纏(まと)ふ蚊の一つを遂に屠(ほふ)り得し   日野草城
夕澄みて東山あり蚊柱に 日野草城
山の蚊の縞あきらかや嗽(くちすすぎ)   芝不器男
昼の蚊を打ち得ぬまでになりにけり   石橋秀野

蚊帳、蚊屋、蚊屋(かや)

 蚊帳は夜間、蚊に刺されるのを防ぐために室内の四方と上部を囲い、四隅から吊ったもの。麻の繊維で荒く編んである。三畳-八畳など、いろいろなサイズがあり、中に入ると緑色の別世界に来たような趣もあった。

釣(つり)そめて蚊屋面白き月夜哉   池西言水
蚊帳の香けふめずらしと宵寐かな   小西来山
ひとり居や蚊屋を着て寝る捨心(すてごころ)  小西来山
(訳)妻子に先立たれ、蚊張は吊らず、身に掛けて寝る。それも名利を捨てた心からだ。
蚊屋の内物失ひて夜は明けぬ   岩田涼菟
蚊をやくや褒姒が閨の私語(ささめごと)   宝井其角
(注)褒姒(ほうじ)は中国・周幽王の寵妃。笑わない美女で有名。
花鳥の中に蚊屋釣る絵の間かな   各務支考
つりそめて蚊屋の匂ひや二三日   浪化
なきがらに一夜蚊屋釣る名残かな   横井也有
蚊屋釣てくるる友あり草の庵   炭太祇
蚊帳つりて翠微つくらむ家の内   与謝蕪村
(注)翠微は、遠くに青く見える山。
垣越へて蟇の避(け)行(く)かやりかな   与謝蕪村
いぶせきや子のあまたある蚊屋の内   黒柳召波
蚊屋いでて寝顔また見る別れかな   長虹
(注)女性との別れだろうか。
蚊帳を出て物あらそへる翁かな   吉分大魯
病中や旅根の水鶏(くいな)蚊張に聞く   三浦樗堂
蚊遣火のけぶりの末に鳴く蚊かな   加舎白雄
蚊はつらく蚊遣いぶせき浮世かな   高井几董
夜通しに壁ぬりあげる蚊遣かな   高井几董
蚊をやくや紙燭(しそく)にうつる妹(いも)が顔   小林一茶
手をすりて蚊屋の小隅を借りにけり   小林一茶
蚊帳釣(り)て夕飯買(い)に出たりけり   小林一茶
くら住や田螺に似せてひとり蚊屋   小林一茶
人もなき蚊張に日のさす宿屋かな   桜井梅室
起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さ哉   遊女・浮橋
(注)加賀千代女の作といわれるようになった。
何事も明日なり蚊帳に入るからは   大橋梅裡
わが心われに戻るや蚊帳の中   三森幹雄
川風や燈火(ともしび)消えて蚊屋の月   幸田露伴
蚊の入りし声一筋や蚊帳の中   高浜虚子
霧しめり重たき蚊帳をたたみけり   杉田久女

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