俳句の季節区分は古い慣わしを踏襲しており、春は立春(2月4日ごろ)から立夏(5月6日ごろ)の前日までとなる。陰暦を用いていたころは春と正月が同義であったため、現代的な季節感に頼ると、正月の句か春の句か判別が難しくなる。有名な「鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春」(其角)は正月の句だが、現代人は春の雰囲気を感じるのではないか。以下の句の中にも、春の句か正月(新春)の句か、まぎらわしものがある。
ゆきつくす江南の春の光かな 松永貞徳
(注)江南は中国・長江の南。唐詩の一節を踏まえる。行き尽くすと雪尽くすをかける。
富士は雪三里裾野や春の景 西山宗因
松島の松陰にふたり春死なん 山口素堂
(注)西行の歌「ねがはくは花のしたにて春死なむ……」を踏まえる。
春の夢気が違わぬが恨めしい 小西来山
(注)夭折した愛児の追悼句。
乗りかけに春の蜜柑や宇津の山 森川許六
(注)乗りかけ(乗掛)は人や荷物を運んだ駄馬。江戸時代、宿場に置かれていた。
伶人(れいじん)の門なつかしや春の声 宝井其角
(注)伶人は音楽の演奏家、特に雅楽の楽官。なつかしは、いとしい、ゆかしい、の意。
浦島がたよりの春か鶴の声 宝井其角
(訳)鶴の声がする。どこかへ行った浦島太郎が、春の便りをよこしたのか。
ちりぢりに春や牡丹の花の上 各務支考
山寺の春や仏に水仙花 横井也有
目をあいて聞いて居るなり四方の春 炭太祇
折釘に烏帽子(えぼし)かけたり春の宿 与謝蕪村
旅人の米ほしがるや里の春 高桑闌更
大津画(絵)の鬼も仏も春辺かな 高桑闌更
(注)大津絵は近江大津の素朴な民衆画。鬼や仏がよく描かれる。
鼻紙にもの書く春の詠(なが)めかな 吉分大魯
(注)詠めるは、詠むと同じ。
日くれたり三井寺下る春のひと 加藤暁臺
須磨山のうしろや春も松ばかり 蝶夢
先ゆくも帰るも我も春の人 加舎白雄
門口に風呂たく春のとまりかな 高井几董
小家みなわが春々とおもふかな 夏目成美
春を見に浅草川をわたるなり 夏目成美
春ながら今日は淋しき日なりけり 下村春坡
寝て起きて愚かもこれやはるごころ 岩間乙二
京の春低き所や我住居(すまい) 江森月居
横雲に声のみゆるやはるのかね 巒寥松
(訳)春の日、鐘の音が聞える。横雲の辺りをゆっくと渡っていくのが見えるようだ。
月さして一文橋の春辺かな 小林一茶
昔々花咲爺春景色 吐眉
鳥さげて春の夕山人戻る 穂積永機
入船の春の町とはなりにけり 峰青嵐
捨て舟にもの食ふ春の鴉かな 下村牛伴
春動く見よ風車水車 安藤和風
(訳)ほら、風車や水車を見てごらん。春が動いているではないか。
春や昔十五万石の城下かな 正岡子規
(注)子規の故郷は愛媛県松山。その昔は15万石の城下町だった。
古沼の芥に春の小魚かな 正岡子規
腸(はらわた)に春滴るや粥の味 夏目漱石
(注)初作は「骨の上に――」であった。病気が回復したときの句。
御仏の御膚(おんはだ)春の匂ひかな 野田別天楼
あひ(相)年の先生持ちて老いの春 赤星水竹居
(注)先生は虚子のこととされる。実際は虚子が一年年上。
逆潮をのりきる船や瀬戸の春 杉田久女
濁り江に春のしらくも映りけり 日野草城
病む我を頼みてあはれ妹(いも)の春 松本たかし