行く春、春行く(逝く)、春尽く、春暮るる、春惜しむ

 行く春には、いい季節だった春が去っていくのを惜しむ気持が込められている。これと同義の季語には、上記のほか春尽きる、春果てる、春の行方、春の湊などがあり、これらを一括して「行く春」の中に含めている歳時記が少なくない。江戸時代の句では「行く春」が断然多い。晩春の非常に重要な季語だったのだろう。春惜しむは行く春と別の季語だが、江戸時代の作例が少ないので、この項に加えた。

行く春や鳥啼き魚の目は泪(なみだ)   松尾芭蕉
(注)鳥も魚も行く春を惜しんでいる、の意味。「奥の細道」旅立ちの句。
行く春に和歌の浦にて追ひついたり   松尾芭蕉
(注)「追ひついたり」は謡曲の口調。旅して去り行く春に追いついた感慨を表した。
行く春を近江の人と惜しみける   松尾芭蕉
(注)前書きに「望湖水惜春」。湖水はもちろん琵琶湖のこと。
行春や鐘つきしまふ杉の中   山本荷兮
行春の麦に追はるる菜種かな   向井去来
(訳)晩春になると麦がぐんぐん伸び、菜種を追い抜こうとしている。
行く春や藤はと問へば五七寸   小西来山
(注)藤は、藤の花房。五七寸は、十五㌢から二十㌢ほど。
けふ限り春の行くへや帆かけ船   森川許六
(訳)今日を限りに春は行ってしまう。あの帆掛け船が去っていくように。
ゆく春に佐渡や越後の鳥曇り   森川許六
(注)鳥曇りは渡り鳥が帰る頃の曇天。北国の言葉とされ、今は春の季語になっている。
行く春のあみ塩からを残しけり   岡田野水
ゆく春に飽くや干鱈のむしり物   河野李由
行く春に追ひぬかれたる旅寝かな   内藤丈草
行く春に底の抜けたる椿かな   各務支考
行く春の何の匂ひぞ小くらがり   槐諷竹
口癖の芳(吉)野も春の行くへかな   松木淡々
(訳)吉野へ行きたい、が口癖だが、そう言いつつも、今年の春は過ぎていく。
古雛の箱にはぐれて春暮れぬ   横井也有
(訳)この古雛は入れる箱がなかったのか。春も終るころなのに、まだ置かれている。
寺へ来て鐘きく春のわかれかな   横井也有
空に減る春の名残や凧(いかのぼり)   横井也有
下戸の子の上戸と生まれ春暮れぬ   炭太祇
(訳)父は下戸だったのに私は酒飲みに。酔っているうちに、春は暮れていく。
はるの行く音や夜すがら雨のあし   炭太祇
ゆく春や旅へ出て居る友の数   炭太祇
鐘鳴りて春行くかたや海のいろ   溝口素丸
行春や海を見て居る鴉の子    有井諸九尼
行く春や撰者をうらむ歌の主   与謝蕪村
行く春や重たき琵琶の抱き心   与謝蕪村
行く春のいづち去(い)にけむかかり舟   与謝蕪村
(訳)ここに繋がれていた舟はどこへ行ってしまったのか。春も行くころだ。
きのふ暮れけふ又くれてゆく春や   与謝蕪村
行く春や逡巡として遅桜   与謝蕪村
行く春や同車の君のささめごと   与謝蕪村
(注)蕪村の句に「春雨や同車の君がささめごと」もある。
春惜しむ座主の聯句(れんく)にめされけり   与謝蕪村
春惜しむ宿や近江の置炬燵   与謝蕪村
手燭して庭踏む人や春惜しむ   与謝蕪村
糸遊(かげろう)のきれやすうして行く春ぞ   堀麦水
ゆく春やどちらへ渡る瀬田の橋   大島蓼太
行春や一声青きすだれ売り   大島蓼太
悠然と春行く水やすみだ川   大伴大江丸
(注)蝶夢の作とする書もある。
ゆく春やいづこ流人の迎(え)船   黒柳召波
ほし衣(きぬ)も暮行く春の木の間かな   黒柳召波
ゆく春のとどまるところ遅桜   黒柳召波
(注)上掲、蕪村の句の類句と言えるだろう。
野に山に閑人(ひまじん)春を惜しみけり   黒柳召波
花ながら春の暮れるぞたよりなき   三浦樗良
行く春やつひに根づきし嵯峨の松   加藤暁台
ゆく春や鄙(ひな)の空なるいかのぼり   加舎白雄
草の戸や更け行く春の青かづら   加舎白雄
ゆく春は麦にかくれてしまひけり   松岡青蘿
わざくれに酒のむ春の名ごりかな   松岡青蘿
(注)わざくれには「たわむれに」「なすことなく」。
めずらしと見るもの毎に春や行く   高井几董
還俗のあたま痒しや暮の春   高井几董
大名のひと夜島原くれの春   高井几董
死なでやみぬいたづらものよ暮の春   高井几董
(注)いたずらものは、役立たず、無頼漢の意味。命拾いをした自分のことか。
行灯をとぼさず春を惜しみけり   高井几董
行く春を鏡にうらむひとりかな   夏目成美
(訳)ああ春も行ってしまうのだな、と鏡を見ながら嘆いている美人が一人。
ゆく春やおく街道を窓のまへ   夏目成美
(注)おく街道は奥州街道。五街道の一つ、江戸千住から陸奥へ至る。
鼠なく雨夜を春の別れかな   夏目成美
行く春の舟から見ゆる山路かな   七五三長斎
行春は筏の下にかくれけり   成田蒼虬
ゆさゆさと春が行くぞよ野べの草   小林一茶
やよ虱(しらみ)這へ這へ春の行く方へ   小林一茶
(訳)おい虱よ、春が去っていくぞ。おまえも春の行く方へ這って行け。
鳥どもよだまつて居ても春は行く   小林一茶
鳩鳴くや大事な春がなくなると   小林一茶
春惜しむ宿や端居の茶漬飯   夏目吟江
行春やけふことさらに雲に鳥   夏目吟江
ゆく春のくれぐれ惜しむ夕べかな   弘永
行く春や目の届くだけ嵐山   孤蘭
行く春もぐわらりと海に入る日かな   其成
行く春やよい値に売れし畑の松   大鵬
行く春や背戸門明けて麦の雨   鈴木道彦
着よごれの羽織を春の名残かな   桜井梅室
垣越しの話も春を惜しみけり   関為山
行く春の奥まつてゐる木曽路かな   毛呂何丸
行く春や楡(にれ)の莢(さや)浮くにわたずみ   森鴎外
行春や親になりたる盲犬   村上鬼城
行春や雀の食へる馬の糞   村上鬼城
行く春やほうほうとして蓬原(よもぎはら)   正岡子規
(注)ほううは、蓬々(髪などが乱れる様子)か。
紙あます日記も春のなごりかな   正岡子規
行く春や知らざるひまに頬の髭   夏目漱石
行春や我歌のこる旅の宿   松瀬青々
行く春や雨に床几(しょうぎ)の裏返し   巌谷小波
行く春の梅は小さき実となりぬ   水落露石
行春の鳥のいさかふ草の上   石井露月
縁側にだまつてをれば春暮れぬ   佐藤紅緑
たとふればすみ田の春のゆきしごと   高浜虚子
(注)柳橋の名女将といわれた女性への追悼句。虚子は贈答句に巧みであった。
行春やゆるむ鼻緒(はなお)の日和下駄   永井荷風
老い猫の目脂(めやに)ためをる暮春かな   鉄枴
行春や干され積まるる藻汐草   小沢碧童
九十九(つくも)谷春行く径(こみち)消えにけり   渡辺水巴
四阿(あずまや)や此処に春ゆく木瓜(ぼけ)二輪   渡辺水巴
行春やうしろ向けても京人形   渡辺水巴
行春の鐘われてゐるひびきかな   久保より江
春尽きて山みな甲斐へ走りけり   前田普羅
行く春や松葉顔うつ東大寺   前田普羅
春徂(ゆく)やかりそめ事に痩せもして   宮部寸七翁
烏賊(いか)に触るる指先や春行くこころ   中塚一碧楼
夢に見しことのある日や春暮れぬ  安斎桜磈子
旅衣春ゆく雨にぬるるまま   杉田久女
丹(に)の欄にさへずる鳥も惜春譜   杉田久女
行く春や蘆間の水の油色   富田木歩
行春や茶屋になりたる女人堂   川端茅舎
九品仏(くほんぶつ)までてくてくと春惜しむ   川端茅舎
人妻となりて暮春の襷(たすき)かな   日野草城
志(こころざし)高からず春暮るるかな   日野草城
手をとめて春を惜しめりタイピスト   日野草城
人入つて門残りたる暮春かな   芝不器男
行春や宿場はづれの松の月   芝不器男
徂く春の卒塔婆小町を見て疲れ   松本たかし
(注)卒塔婆小町(そとばこまち、そとわこまち)は能の演目。老いた小町を描く。

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