春の水、春水、水の春、水温む

 この季語は陶淵明の詩「春水四沢(したく)に満ち」に拠っているという。これは四季の典型的な景物を並べた詩の一節であり、春を最も表すものが水、と言うのである。そのため江戸時代の句に詠まれているのは、ほとんどが自然界における春の水だった。現代では水道の水や神社の手水なども題材にされるようになった。

 「春の水」と「水温む」は本来、別の季語とすべきだが、歳時記によっては同じ季語グループとしている。本句集も句数の関係から、一つの季語として扱った。

きのふけふ(昨日今日)音ぞきこゆる春の水   杉山杉風
春や今水に影ゆく鳥と雲   向井去来
春の水ところどころに見ゆるかな   上島鬼貫
流れ合うてひとつぬるみや淵も瀬も   加賀千代女
すゑの世にながれてぬるみ増(さ)りけり   加賀千代女
堀川や家の下行く春の水   炭太祇
行く船に岸根をうつや春の水   炭太祇
春の水山なき国を流れけり   与謝蕪村
足よわの渡りて濁るはるの水   与謝蕪村
(注)足よわは、女性、子ども、老人など力の弱い人のこと。
小舟にて僧都(そうず)送るや春の水   与謝蕪村
橋なくて日暮(れ)んとする春の水   与謝蕪村
春水や四条五条の橋の下   与謝蕪村
烏帽子着てたれやらわたる春の水   与謝蕪村
春の水すみれつばなをぬらしゆく   与謝蕪村
ながれ来て池に戻るや春の水   与謝蕪村
水ぬるむ頃や女のわたし守   与謝蕪村
照らされて雪をくぐるや春の水   堀麦水
紅絹(もみ)裏のうつればぬるむ水田哉   大島蓼太
あかねさす藪を出(で)けり春の水   高桑闌更
底のなき柄杓(ひしゃく)ながれて春の水   高桑闌更
しづかさや雨のあとなる春の水   黒柳召波
鳥の羽を見れば行くなり春の水   加藤暁台
(訳)流れていないような春の水。しかし鳥の羽根を見れば「流れている」と分かる。
春の水東寺の西に見ゆるかな   加藤暁台
頭巾着て誰やらわたるはるの水   加藤暁台
(注)蕪村の「烏帽子」の句とほぼ同じ。
音のして雪をくぐるや春の水   佐藤晩得
淵の水深きはふかくぬるむ哉   加舎白雄
浅茅生(あさぢふ)にめぐり初めけり春の水   松岡青蘿
日は落て増すかとぞ見ゆる春の水   高井几董
磯山や小松が中を春の水   高井几董
(注)磯山は磯辺近くにある山。この句の場合は低い丘のような山だろう。
野も山も冬のままじやに春の水   高井几董
雪に折(れ)し竹の下ゆくはるの水   高井几董
堤行く牛の影見ゆ春の水   高井几董
人うつす水のこころもはるなるか   夏目成美
行く先に酒があるなり春の水   毛呂何丸
家形に月のさしけり春の水   小林一茶
鷺烏雀が水もぬるみけり   小林一茶
たふれ(倒れ)木に添ふてめぐるや春の水   桜井梅室
山の灯の見えても暮れず春の水   鶴田卓池
春の水仮名書くやうに流れけり   近藤金羅
渡るとて雲も眺めつ春の水   梶太乙
見ぬうちも流れゆくなり春の水   代五渡
誘う水ありて流れつ春の水   五味寥左
春の水泡にひかれて流るめり   原田飄子
(注)流るめりは「流れているように見える」。
盛り上がるやうにふえけり春の水   渡辺詩竹
宵々や二階にひびく春の水   天野桑古
海に入る勢い見えて春の水   古川柳叟
桶に浮く丸き氷や水ぬるむ   内藤鳴雪
春の水離宮を出でて流れけり   中川四明
春の水出茶屋の前を流れけり   正岡子規
下総の国の低さよ春の水   正岡子規
春の水めぐるや石の橋柱   松瀬青々
山買ふや山の境に春の水   石井露月
山越えて山なき国や春の水   石井露月
木屋町や裏を流るる春の水   河東碧梧桐
田に落ちて音なくなりぬ春の水   大野洒竹
春の水綺麗な砂を吹きあげる   佐藤紅緑
春水に逆さになりて手を洗ふ   高浜虚子
春の水一枚石をくぐりけり   寒川鼠骨
春の水そのほかのものみな古し   永田青嵐
一の堰(せき)二の堰春の水溢る   広瀬八重桜
陽炎の草に移りし夕べかな   臼田亜浪
我影に家鴨寄り来ぬ春の水   臼田亜浪
春の水岸へ岸へと夕(べ)かな   原石鼎
水底に映れる影もぬるむなり   杉田久女
坊毎(ごと)に春水はしる筧(かけい)かな   杉田久女
水栓をひねるすなはち春の水   日野草城
水温む小さき花の白十字   石橋辰之助

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